[#表紙(表紙.jpg)] 松本清張 火 神 被 殺 目 次  火 神 被 殺  奇妙な被告  葡萄唐草文様の刺繍  神の里事件  恩 誼 の 紐  うしろがき [#改ページ]    火 神 被 殺      1  ぼくの経験を書く。なるべく簡略な記述ですすめたい。  まず、ぼくとは直接関係のない一つの出来事からはじめる。  昭和四十年九月のことである。島根県の松江市内で或る事件が発生して、警察が市内の旅館を捜査した。その事件は、この話に関係がないから省くが、警察では宿帳から調べることになった。所轄警察署には各旅館から宿帳──といっても伝票のような一枚ずつのものだが、その写しを届けさせるようになっている。事件というのは去る五月に起ったので、前から宿帳の名前を捜査員が虱潰《しらみつぶ》しに見ていった。数多い旅館だから係員が手分けして検索した。旅館は四月から六月まではシーズンで、団体客も入るから人名は夥《おびただ》しい。  Aという旅館の宿帳の中に、どうも怪しいと思われる客の名前があったので、署員はその旅館に行って元帳を調べることになった。旅館によっては、写しの文字を書き間違えるものがあるからである。  旅館の元帳は、客が自筆で書いたものを一カ月分ずつ綴《と》じているのだが、署員がマークした人名は元帳も同じで、写し誤りはなかった。  しかし、署員が念のために二、三枚下を繰っていると、元帳と写しとが違う人名が一つあった。その前後は同じだから、あきらかに写しのほうが相違している。それも一字というようなものではなく、氏名も住所もまるきり違っていた。 [#この行1字下げ]元帳──横浜市中区寿町三ノ一五七 大宮作雄。三十四歳。会社員。他一名。 [#この行3字下げ]到着日時、昭和四十年五月二十七日午後五時。出発日時、同二十八日午前十時。 [#この行1字下げ]写し──広島市牛田町一〇二ノ三二 津南儀十。三十四歳。会社員。他一名。 [#この行3字下げ]到着日時、昭和四十年五月二十七日午後五時。出発日時、同二十八日午前十時。  年齢、職業、到着と出発日時だけが同じである。他一名とは女づれのことだろう。 「おかしいな。これはどうしたのですか?」  署員は、番頭にきいた。 「変ですね」  番頭もいっしょにのぞきこんでいたが、思い出したようにいった。 「ああ、それはこういう事情です。楓《かえで》の間の係女中の久子というのがね、このときから二カ月経って、だから七月の末でしたが、一人のお客さんがきて、五月二十七日に泊った同伴客が津南儀十という名前を宿帳に書いたはずだが、それは間違いで、当人から本当の名前に訂正してくれと頼まれたから、済まないがそのぶんの宿帳を持ってきてくれ、といわれたというんです。それで、お久が私に黙って帳場から五月分の綴込をその客のところに持って行ったのですね。私がいると、そんなことはさせないのですが。それで、客が新しいのを書いて、前のと取り換え、お久はそれを綴じ入れる、客は前のぶんを破って了う、という次第でした。お久は客からいくらか貰ったらしいですね。そのことは、お久があとで私の耳に入れました」 「そんなことをしても、写しのほうは警察署に出しているから訂正はきかないのにね」 「そこまでは客も久子も気がつかなかったのでしょう」  従って、写しの名前が、元帳の前の名前だったのである。 「どうしてそんな書き直しをわざわざしたんだろう。しかも、ここに泊る序《つい》でがあったのかもしれないが、他人に頼んでね」  署員はいった。 「その人は、この大宮という方の友だちだといっていたそうです」 「それじゃ、その男客の名前も、ここの宿帳の七月分にあるはずですね?」 「さあ、それがどの人だか久子から名前を聞いておくのを忘れましたので」 「久子さんをここに呼んでもらえますか?」 「久子は親父さんが病気だとかで、一週間ばかり前から鳥取県の田舎に帰っております」  番頭は頭をかいた。  署員は、ともかく両方を手帳にメモして帰った。しかし、それから先の追及は必要でなくなった。事件は別なところで解決し、捜査が打切られたからである。二つの違った名前は、その署員の手帳の上だけに残され、あとは忘れられてしまった。  それから一年ほど経って、昭和四十一年の十月に全く別な事件が発生した。  宍道《しんじ》の南部に木次《きすき》という町がある。芸備線(広島・岡山県新見間)の備後《びんご》落合と宍道の間を木次線というが、その木次町からかなり南に寄った山間の渓流沿いに湯村という小さな温泉がある。宿は十軒にも足りない。古い温泉で「出雲風土記《いずもふどき》」では仁多郡三沢郷となっている。以前はたいそう不便なところだったが、今は宍道から三成《みなり》通いのバスが出ていて、その途中に場村の停留所がある。しかし、山中であることには変りはない。  湯村から一キロほど北にはなれた山腹の杉林の中でバラバラの白骨死体が発見されて騒ぎになった。  頭と胸部、つまり肋骨の部分が横たわっていて、両手はない。腰部の骨がなく、両脚の骨が大腿部の下のところからある。しかもその両脚の骨は八の字に開いたかたちで置かれてあった。現場は、バスの通る国道の東側を五十メートルほど登って、さらに裏山になる。そこは焚木を集める村人もふだんは寄りつかない藪の中だった。  検視すると、白骨は一年以上を経過したもので、三十歳ぐらいの女性と推定された。衣類は残片も残っていない。所持品もない。ただ、はなれたところに女の靴が片方落ちていた。靴のサイズは二十三である。一年くらいで衣類が朽ち果てて、繊維も存在しないということはあり得ないので、裸身のままの死体だったことになる。死亡時は昭和四十年の晩春から秋の間と推定された。所轄の木次署が捜査にかかった。  まず、地域内の婦人の失踪《しつそう》者を探したが、これはなかった。目当ては湯村温泉にきていた温泉客だが、過去七、八年、婦人客で行方不明になった者はいなかった。ただ、旅館に入る前や出てからのことは宿の者には分らない。また、バスが通っているので、必ずしも温泉にくる客とも限らなかった。  山林一帯の広い範囲にわたって残余の白骨の部分が捜索された。手の骨が片方だけ出てきたが、獣がかじったあとがある。このへんは野犬もいるし、ときには猪も出る。猿もいる。片手の骨は現場から犬が運んできたものらしいが、胴体の下半分に当る骨は遂に見当らなかった。両脚がばらばらになって八の字に残っているのは犬か猿が触って偶然そうなったものか、犯人が両脚を切ったあとそういう形においたのか分らない。もし、あとの場合だと、どういう心算《つもり》だろう。  警察の嘱託医をしている開業医の意見では、バラバラにした骨の切り口は不器用で、使用したのは鋸《のこぎり》と肉切包丁だろうということだった。もちろん、肉体のあるときだ。その凶器も見当らない。靴の片方も発見できない。野犬がくわえて行ったのかもしれなかった。頭、胸部、脚の発見現場は谷間で、周囲を藪にかこまれ、少しばかり台地になっている。どういうものか八の字に開いた両脚の上方に麦が三本か四本短く生えて枯れていた。だから、そこは、現在は見当らない胴体部に当る。麦はこの山間にはない。山腹の畑につくられているのだが、現場からはかなりはなれている。強風のために穂先が運ばれてきたか、畠荒らしの猪か犬かが身体の毛につけて落していったのかもしれない。  バラバラ事件は、この地方では大事件であった。めったに発生しない。  白骨は中肉中背と推定された。二十三の靴と合う。歯は丈夫で、ムシ歯の治療のあともなかった。美人だったかどうかはもとより判らぬ。困ったことに歯医者からの手がかりがない。  木次署に、県警から応援の捜査官がきた。被害者が他県人だとの見込みもあったので東京の警察庁刑事部にも報告した。中肉中背、ムシ歯治療のあとなし。女性、推定三十歳くらい。この特徴のなさ過ぎる手配書では、家出人捜索願を出した先からも問合せは少なかった。  県警では、遊覧の目的で来た女性という見込みで県下の旅館に当った。一年前のことだし、白骨と、平凡な女靴とだけでは手がかりがなさすぎる。人相、衣服、所持品一切分らない。靴の販売先も知れなかった。愛欲関係で、当然男と同伴だったと思われるが、その男も不明である。しかし、県下には松江や出雲大社などの遊覧地があり、玉造《たまつくり》温泉、松江市には年間数十万の客が泊る。すぐ隣の鳥取県には皆生《かいけ》温泉がある。この中から該当者を見つけるのは至難のことであった。結局、捜査は行詰って木次署に置かれた本部は解散した。  このとき、一年半前のA旅館における宿泊人名簿の正副に載った同伴客「大宮」と「津南」の人名の喰い違いの件が捜査本部の耳に入っていたら、あるいは一応係官の注意を惹いたかもしれない。だが、それはできずに終った。  原因は二つある。  一つは、そのときの松江署員が辞めてしまったことだ。もともと宿帳の原簿と写しとの人名の相違に注目したのは、ある事件の捜査についてであったから、その仕事が片づけば警官の関心は失われた。彼はこのことを上司に報告せずに退職したのである。もし、上司が報告を聴いていれば、その一年後に湯村温泉近くで発見された白骨バラバラ事件で記憶を呼び起し、何かの参考になるかもしれないと判断し、本部に連絡することもあり得る。そうしたら、捜査は別な段階を迎えていたかもしれぬ。  その二は、白骨は女性として各旅館に手配された。宿帳の名は、男である。旅館側がこの二つの間を連想でつなぐ作業をしなかったのは無理もないことだった。その上、楓の間の係だった久子という女中が……いや、これはもう少し後日の話になる。  ここで右の経過を時日順に整理してみると、  ㈰ 昭和四十年晩春から秋にかけた期間中、大原郡本次町場村温泉附近山林中で、推定三十歳ぐらいの女性が殺され、バラバラにされる。当時だれも知らなかった。  ㈪ 四十年五月二十七日夜、広島市津南儀十(三四)他一名の同伴客が松江市のA旅館に一泊。  ㈫ 同年七月末、氏名不詳の男がA旅館に来て、前記の宿帳記名を横浜市大宮作雄(三四)に書き直す。原簿のみ。  ㈬ 同年九月、松江署員が右の原簿と写しの記名相違を知り、A旅館を調査したが、そのときは事情不明。  その後、当面の別事件が解決したので、この調査はそのままとなり、署員も退職。  ㈭ 四十一年十月、㈰の事件の死体がバラバラの白骨となって発見されたが、捜査難航し、遂に打切る。      2  A旅館の調査をしたというのは、実はぼくの甥《おい》である。ぼくは東京の或る医科大学の教師をしているが、甥が東京で生活したいというものだから、世話をして千葉のほうにある鉄鋼会社の総務課に入れてやった。三十四歳の独身だが、ときどきぼくの家に遊びにくる。彼が松江のお巡りさんを辞めて上京したのは一昨年の四十一年三月だった。  右の話の全部は、甥の木谷利一の語るところである。利一は今年の七月に松江市の両親の墓詣りに戻り、元の同僚から湯村温泉の白骨事件をビールを飲みながら聞いたというのである。 「そこで、ぼくは三年前のA旅館の宿帳の一件を思い出し、A旅館に行って楓の間の係女中だった久子に会おうとしました。ところが久子はあのとき鳥取の田舎に帰ったまま辞めてしまい、その上、半年前に病死したそうです。だから、四十年の七月に宿帳を書き替えた男の様子も、彼がそのとき宿帳に記した名前も分らずじまいになりました。A旅館は大きいので、係女中以外には番頭にも記憶がないのです。その上、運の悪いことに、原簿のほうも二年前に整理処分してしまい、原簿に記されていた大宮作雄の筆蹟も見ることができませんでした」  甥はそう語った上、叔父さん、この宿帳の書き替え一件と、白骨事件とを頭に置いて、どう思いますか、とぼくに訊いた。  よく分らないが、と断った上で推測を甥にいった。  ──白骨死体となった女の死亡時期が、四十年五月二十七日に横浜の大宮作雄他一名がA旅館に一泊したのとほぼ一致している。この同伴客は、愛人だろう。そして、その女のほうが『大宮』に湯村で殺されたのかもしれない。二十八日朝にA旅館を発っているから、その日のうちか、あくる日だろうね。もし、前から犯意があったとすれば、『大宮』は偽名だろうし、横浜の住所も出鱈目《でたらめ》だろう。  宍道から湯村温泉まではバスが出ているということだから、二人はバスを利用したものと思う。犯行は夜に入ってからだろう。女の衣類と所持品は、男が自分のスーツケースか女のケースかに詰めて持ち帰ったのだろう。だから、二人のうち一人は手軽な荷物だった。夜の犯行とすれば、湯村温泉に一泊しなければならないが、警察の捜査には該当者が出てこなかったね。一年前のことだから湯村の旅館でもおぼえていないのだろう。  次に、A旅館に泊った『津南』が、なぜ他人にいって宿帳を『大宮作雄』に書き直させたかだ。その男と『津南』とが同一人でないことは女中の久子が顔を見て分っている。 『津南』と名乗った男と、宿帳書き替えを頼まれた男との関係は、よほど親しい間柄か親戚だろう。犯罪の湮滅《いんめつ》工作だからね。その男をかりにXとしよう。  ところで、なぜ『津南』を『大宮』に変える必要が生じたかだ。『津南』も偽名なら、『大宮』も偽名だろう。Xはどこの人間だか分らないが、遠くから来たに違いない。『津南』の住所が広島になっているのは、広島に近い土地かもしれない。そうだとすれば、なぜ、遠いところから出かけて(たとえ序でがあった人間としても)わざわざ宿帳の名を『大宮』に書き直させるようにしたのだろうか。  そこで考えられるのは『津南儀十』が犯人自身の姓名に近く例えば二字ぐらい違っている程度で、他から推察がつきやすいことだったのではあるまいか。その不安が二カ月後にXにたのんでの書き替え工作になったのだろうね。犯人もXも、宿帳の写しが警察に届けられていることを知らなかったから、これは尻の割れる細工になったがね。そのために、君は最初の記名『津南儀十』を知ることができた。  係女中の久子が死亡して『津南』とその同伴の女性の特徴が分らず、Xの記名も人物風体も知れず、また、宿帳原簿の処分によって『津南』と『大宮』の筆蹟が見られなくなったのは、かえすがえすも惜しいがね。……  こういう感想をいうと、甥は、史眼と推理と同一性質ですね、とぼくの顔を見てにやにやし、 「叔父さんの推定にはまったく同感です」  といった。同感の証拠は、自分も松江に帰省中、バス会社とハイヤー、タクシー会社を調べた。が、もちろん三年前に松江から湯村温泉に運んだ該当の男女客は分らなかった、といった。  君は、ひとりでそれを調べたのか、そのことを古巣の松江署には申し出なかったのか、とぼくが訊くと、甥は、 「しかし、松江の宿帳書き替えと、湯村の件とが関連しているというはっきりとした裏づけがないですからね。臆測だけでは、うっかりといえません。警察に十年ほど居ただけにそのことはよく分っています。もし、かりに、『津南』か『大宮』かの正体をほじくり出しても、無関係だったら、骨折り損だけではなく、その人に大迷惑をかけますから」  といったあと、 「史眼では、生きた人間の人権侵害問題は起らないでしょうからね」  と、揶揄《やゆ》する口ぶりだった。  そんなことはない、とぼくは少し|むき《ヽヽ》になっていった。史眼も推理だけど、やたらと臆測するだけでは、だれも聴いてくれないばかりか、史学者としての信用がなくなる。間違った史眼は自分に対する転落行為だといった。 「それで、学者は慎重なんですね。確実な資料という物的証拠がないとモノがいえないんですね。しかし、叔父さんの専門の古代史、いや、叔父さんは医者だから専門は医学で、古代史は趣味、趣味といって悪ければもう一つの専門ですね、その第二専門の古代史では、物的証拠といえば古事記、日本書紀などの古典、それに例の魏志倭人伝、宋書倭人伝の中国文献と、考古学上で知られている物《ぶつ》ですね。ところが、こういうのはだいたいみんな分っているし、殊に文献は古くから知れ渡っている。その上、資料が圧倒的に少ないですから、どうしても無の空間を埋めるのは、ある程度は臆測でしょう? ところが専門家は信用保持の上から臆測をつつしむから、あまり大胆なことがいえない。その点、叔父さんのは第二専門だから、臆測もずばずばいえて、気が楽なんじゃないですか」  いや、近ごろは第一専門家だって臆測が相当にまかり通っているよ、とぼくはいおうとしたが口には出さなかった。  そういうことがあってから、二週間ほど甥は姿を見せなかった。甥といっても、彼はぼくの長姉の子なので、ぼくとはそれほど年齢が開いていない。松江に居たときはともかく、彼が千葉に住むようになってあまり足が遠くなると、ぼくも話相手に彼を待つような気持になる。  甥が松江にいたころ、彼からたびたび遊びにくるようにすすめられたが、とうとう一度も行く機会がなかった。出雲には若いときに一回行ったきりだが、ぼくが医学の傍に従っている古代史からいっても、ぜひ行って見なければならなかったのだ。もう少し出雲のことを調べてからと大事をとっているうちに、甥の居る間、機会を失った。もっと見物気分になって気軽に出かけたほうがよかったかもしれぬ。 「出雲風土記」は、日本の古代の謎を解く一つの鍵をもっている。古事記の撰上が和銅五年(七一二)、日本書紀の撰上が養老四年(七二〇)、紀の完成におくれること十三年、天平五年(七三三)に「出雲風土記」が出雲|国造《くにのみやつこ》広嶋の手で中央政庁に提出された。記紀の神代巻はその三分の一を出雲の説話に費しているが、「出雲風土記」の内容とはかなり喰い違いがある。出雲の古い説話を風土記は伝えているのに、それに無いことが記紀に載っている。たとえば、高天原《たかまがはら》を追放されたスサノオノミコトが出雲の斐伊《ひい》川の川上で八俣《やまた》の大蛇《おろち》を退治して、救助した櫛名田比売《くしなだひめ》と結婚した話、ならびに殺した大蛇の尾から鉄剣を得て大和朝廷に献じたという有名な話は記紀だけにあって、風土記にはない。その他、こまかい異《ちが》いが相当にある。また、風土記にあって記紀に無い神の名があり、記紀に主役として活躍する神で風土記にはまったく出てこない神もある。  この中央の伝承記録と、出雲の伝承記録との相違は、ずいぶん早くから学者の間に注目されて問題となってきていたが、記紀には、大和の古い氏族(豪族)が祖先を飾っていること、天皇家の権威に政治的な作意が見えているのに対し、「出雲風土記」の独自性は、天孫民族に「国譲り」する前の先住民族の姿がみられる点である。神代巻に関する限り、これを記紀の作意とつき合せて、古代国家の経緯を洗い出そうと試みる史学者は少なくない。  実は、ぼくもその一人で、これから話そうとするR大学助教授の砂村保平のグループに入っていた。      3  二週間経って、甥がやってきた。その顔には少し昂奮が見えていた。 「叔父さん、ぼくは一昨日大宮作雄氏に遇いましたよ」  なんだって、とぼくは訊き返した。 「市川にある下請会社の社長なんです。商売上のことで会ったのですが、出された名刺を見てびっくりしました。名前が宿帳の記名と一字も違いません。あなたは広島のお生れですかというと、そうだというんですね。そして、ぼくが遠慮がちに、あなたは三年前に出雲においでになったことがありますかと問うと、島根県にはまだ一度も行ったことがないというのですね。その顔つきを見ていると、どうも本当らしく、嘘をいっているようには思えません」  大宮作雄氏は三十七歳の実直そうな人物で、そのものがたい人柄は同業の間でも高く買われている。とても女性殺人の嫌疑者には思えない。 「世の中には同姓同名も多いが、大宮作雄というのは日本中でおそらくこの人ひとりでしょう。大宮という姓はそうザラにはありませんよ」  そのことを逆に考えると、松江の宿帳にその名を記した男は大宮作雄を何かの理由で知った人間でなければならない。ただの創作でもなければ、他の実在の人間の名を一、二字変えたのでもない。大宮作雄の親戚か友人か、または何らかの訳で彼の名前を知っていた人が、それを使用したことになる。 「ぼくは、大宮さんにA旅館の宿帳の一件だけを話し、心当りはないかと訊いたんです。大宮さんは考えこんでいたが、どうも無いというんですね」  その上、津南儀十という名も心当りがないと大宮作雄氏は甥に言明した。宿帳の原簿にあったはずの(写しにはそのまま残った)津南の名を消したのは、津南に近い名前の人物が、その線から自分の存在が浮び上ってくるのではないかと気づき、不安になって二カ月後にXに頼んでA旅館に行かせ大宮の名に変えさせたのであるから、大宮氏の周辺に津南が居るはずはなかった。とにかく、大宮作雄は全くの架空であろうと考えていたのが、意外にも実在の人間だったのである。ところで、甥は一つの思いつきを得た。もともと宿帳に訂正した「大宮作雄、三十四歳」は、前の「津南儀十、三十四歳」と年齢の点だけを踏襲したのであるから、年齢だけは真実のように思われる。一つには、年齢を変えるのは女中に不自然に思われそうなことと、二つには、年齢だけではべつに不安の種にならないと、X、あるいはXへの依頼者は、考えたのではなかろうか。甥はそう思った。  げんに実際の大宮作雄氏は三十七歳で、今より三年前の昭和四十年は三十四歳であった。同年の友人となれば、学校時代の同級生が考えられる。甥は大宮氏から出身校を聞き、某大学に行って卒業生名簿の閲覧を乞うた。調査を順次に高校、中学校、小学校と下にひろげるつもりだったのである。 「ところが、大宮氏の同級生名簿の中に、叔父さんと第二専門で親しい砂村保平助教授の名があったんです。ちょっと、おどろきましたね」  甥が大宮作雄氏に会って、砂村保平のことを訊くと、砂村は識ってはいるが、大学のころはそれほど親しくはなく、あまり話をしたこともない、という答えであった。  もちろん、この事実で、砂村保平がXと同一人で、松江の旅館で宿帳の「津南」を、同級生の大宮作雄の名に書き替えた人物とはいえない。たとえば、同級生の点に絞ってみても五、六十名はいるし、その中の一人にXがいるかもしれないのである。この交友関係を拡大すると、ほとんど無限に近いものになり、Xをそこから推定するのは非常に困難になる。しかし、とにかく卒業生名簿に砂村保平を見たのは奇縁であり、甥の発見であった。 「叔父さん、いちど砂村先生にこの話をして、卒業生の中から大宮氏の名前を借用するような人の心当りを訊いてくれませんか?」  甥は半分冗談顔でいった。その註文が無理なことは彼にも分っている。が、彼はここでも史眼と推理の同一性を持出し、古代史に新説を出している砂村保平に万一の期待を寄せているようであった。  それから三日ばかりして、ぼくは世田谷の赤堤にある砂村の家を訪ね、いつもの古代史の話に時を過したのだが、そのとき、途中でぼくはふいと思いついたように、 「それはそうと、君は大宮作雄という人を知っているかね?」  と、訊いた。 「大宮作雄?」  小肥りの砂村は、血色のいい顔に眉を寄せて、眼鏡の奥から細いが鋭い眼(近視眼の眼つきは鋭くみえる)をぼくにむけ、 「知らんな。どういう人だ?」  と訊き返した。なにかよくないことで自分にかかわりがあるのではないかという懸念が先走ってみえた。その懸念はこの場合当っているのだが、砂村は元来神経質な男だった。 「大学で君と同級生だった人だがね。おぼえていないか?」  砂村はブランデーのグラスを両手に抱えて顔を伏せ、記憶をさぐっていたが、その顔をぱっとあげると、 「いや、どうも憶えがないね。そういう奴がいたかもしれないが……」  と首を激しく振った。  その人がどうかしたのか、と砂村が訊くので、ぼくは松江の宿帳の一件を話した。ただ、湯村温泉での白骨死体との関連は黙っていた。殺人事件といった新聞の社会ダネ的な話題をいつも砂村は軽蔑する癖があったので、つい、ぼくも遠慮したのである。砂村を愉快にさせ、夢中にさせるのは古代史のことだけだった。いまもそれがつづいている途中だったので、ぼくは彼の好まない話題を出して水をさしたような気がし、よけいに湯村の事件のほうはいえなかったのである。 「ぼくの甥がね、つとめている会社の用事で大宮氏に会ったら、自分の名前が利用されたので困っているとこぼしていたそうだ。そのとき、大宮氏は君と大学がいっしょだったといっていたそうだよ」 「そうか。よくおぼえてないなあ。顔を見たら思い出すかもしれないが」  砂村の眉間《みけん》にはまだ縦皺が残っていた。 「で、その大宮君が名前を他人から宿帳に利用されて、どう迷惑をしているのだね?」 「さあ、そのへんのところはぼくにはよく分らないが」  ぼくはやはり湯村の一件は黙っておいた。それを話すと、甥が松江署の元警官ということをいわないと筋が通らなくなるし、ぼくが甥にたのまれて調査しているように砂村に曲解されるのはいやだった。 「第一、ぼくは出雲にはまだ行ったことがない。ぜひ訪ねなければと思いながらも、その都度計画がほかの用事で挫折するのだ」  砂村もぼくと同じ心残りを洩らした。大宮作雄に関する話はそれきりとなった。というのは、ぼくらは再び、古代史の話に戻ったからである。そのころ、出雲と大和朝廷の関係がわれわれの新しい話題となっていた。  ──記紀と出雲説話の照合によって、記紀にいう出雲の神の「国譲り」が出雲地方のことではなく、実は近畿地方一帯を含めた日本の居住権の譲渡であったというのが、ぼくらの考えである。いわゆる天孫民族が大和政権を持つ前に、出雲系の種族が畿内に先住していたとみる学者は少なくない。「国譲り」は「豊葦原《とよあしはら》の中津国」すなわち水辺植物の繁茂する沼沢地の大和平野の居住権を、出雲系種族が後来の天孫民族に渡したとみるのが正しい解釈だろう。もちろん居住権には、共同体を治める支配権が附随していた。  しかし、畿内「国譲り説」を支持する学者のほとんどは、出雲勢力の版図が、吉備地方、但馬・丹後地方経由で大和を包含していたと解釈するのだが、これは間違っている。出雲を根拠地としていた種族は大和地方にも移住していたが、その移住先を天孫民族にあけ渡し、根拠地の出雲国に後退したのが第一段の進行である。七世紀の前半に天孫民族の発展である大和王朝の中央集権化によって出雲国までが大和勢力に服従させられたのが第二段の進行である、とぼくらはみる。八世紀の初頭に出来た記紀は、このプロセスを天皇家の権威のために政治的脚色を行なったのだ。  畿内出雲系先住論者の誤りは、出雲をかれらの本国とし、畿内をその勢力の伸長先、たとえば植民地のような考えで解釈することにある。だから、批判派からは、三世紀ないしは四世紀の前半に、出雲系種族がそんな強大な勢力をもっていたとは思われないとか、その強大な勢力を裏づけするような考古学上の知見が出雲にはないとかいった反論を喰うのである。  すなわち、ぼくらの主張する二段階の進行形態をひとつにして一足とびに国譲りを考えるからこういう理論の弱点を出す。  ある論者は、記紀の神代巻に出雲神話が三分の一を占めるのは、皇室の説話を表舞台に出すために出雲を「裏方」にする必要からであり、出雲を「根の国」「黄泉《よみ》の国」として、皇室の祖先をひき立たせるにあったから、国土の国譲りもその権威をあらわすための記紀の虚構であるといっている。だが、国土(大和地方)の譲渡はこの論者がいうような「錯覚」ではなく、真実だったのである。  もっとも、出雲を黄泉の国としたのは大和王朝説話を輝き出させるためであったことは、その限りでぼくも認める。しかし「裏方」という表現はそれほど適切ではない。むしろ皇室の祖神を天照大神という太陽神にしたために、大和を朝日さす明るい昼の国とし、出雲を暗い「夜《よる》」の国につくったのであろう。 「黄泉《よみ》」というのは中国の漢字を使ったとき、死者の世界の意味で輸入した。もともと夜《ヨル》からきた言葉であろう。ヨルとヨミが同義なことは、月読命《つきよみのみこと》の名でも分る。月読《つきよみ》では何のことだか分らないが、読をヨミ(夜)と解し、夜の象徴である月を配すれば、「月夜」となろう。  しかし、アマテラス(天照大神)のアマに「天」の漢字を宛てて天空の意としたのは八世紀初めの帰化人史官の誤りで、アマの本義は海の意が強い。海人《アマ》だとか天の鳥船《アマノトリブネ》だとかが好例である。アマノコヤネノミコト(天児屋根命)を天空で屋根の家に住んでいた神とすると妙だが、海辺の小屋に住んでいた人の神格化と解するとすっきりする。天照大神を祭る伊勢神宮が内陸のほうぼうを移転した末に結局、海辺に落ちついたのも、原形は海人の信仰神だからで、ここで「天照らす、国照らす」の対語が「海照らす、国照らす」の意味として生きてこよう。伊勢神宮に古式の海水からの製塩法の儀式が遺されているのもその傍証となろう。のちに外宮《げくう》の豊受《とゆけ》大神宮によって農耕神を強調し、海人信仰を消そうとした意図がみえる。  アマテラスを天照としたために出雲がヨミの国になり、その語のつづまったネが「根」となって、地下にある暗い国にしてしまったのは、記紀の作為である、とぼくらは思う。  とにかく、ぼくは砂村保平と会うたびにこんな話に身を入れるのであった。      4 「出雲が大和の先住民族だったのを示すのは、例の出雲国造神賀詞《いずものくにのみやつこのかむよごと》だね」  と、砂村保平はいった。神賀詞とは、出雲国造が代替りするたびに朝廷に行き、その地位の承認を求めるときの一種の挨拶状である。 「たいていの者は記紀と出雲風土記の説話から手がかりを求めるけど、神賀詞の文句には国譲りが大和だったことがずばりと出ているよ」  それは次の文句だというのである。 ≪豊葦原の水穂国《みづのほくに》は、昼は五月蝿《さばへ》なす水《みな》湧き夜は火瓮《ほべ》なす光《かがや》く神あり。石根《いはね》・木立《こだち》・青水泡《あをみなは》も言《こと》とひて、荒ぶる国なり。然《しか》れども鎮め平《む》けて、皇御孫命《すめみまのみこと》に安国と平らけく知ろしまさしめむ≫  これは出雲|臣《おみ》の祖、天穂日命《あめのほひのみこと》が天孫から国譲りの命をうけたとき、その国土の状況を下見して報告した言葉だが、朝廷に協力した出雲臣の祖神の功績を述べた条《くだり》とされているけれど、「昼は悪水が湧き、夜は螢のような虫が光り、岩石はごろごろし、森林は茂り、その下には水が無気味に青く淀んでいる大変荒れ果てた土地です」という意味で、国の大半が沼沢地や湿地帯であることをあらわしている。これこそ大和盆地の曾《かつ》ての姿である。  ところが古事記では天忍穂耳命《あめのおしほみみのみこと》が天の浮橋に立って「豊葦原の千秋の長五百《ながいほ》秋の水穂国は、いたくさやぎてありけり」というだけで、何が騒ぐか分らない主語不明の形容でぼかしてしまい、書紀では「彼の地多《くにさは》に螢光《ほたるひ》の光《かがや》く神及|蝿声《さばへ》なす邪《あ》しき神あり、復《ま》た草木|咸《みな》能く言語《ものい》ふことあり」と情景がことごとく擬神化されて曖昧になっている。これは沼沢地であったことをぼかすことによって大和国の国譲りの意をかくして、出雲国の譲渡にすりかえようとする工作だった。そのため、その交渉も出雲の稲佐の浜に設定してウソをかためようとする。だから以来現代に至るまで国譲りは出雲一国の統治権の譲渡に縮小されて考えられてきた。  ぼくらの考えによると、出雲説話の「国引き」は、出雲族の日本海沿海地方の勢力伸長であり、スサノオノミコトの国巡りはその内部がためであり、スサノオの子のオオナモチノミコト(大穴持命=書紀では大国主神)の婚姻は連合強化のあらわれだと思っている。古志のヌナカワヒメへの求婚は越後までがその勢力範囲だったことが分り、このことは日本海を流れる対馬暖流の北上を考えると自然に理解される。  およそ現代まで何々美人と呼ばれるのは裏日本の国々で、これも「出雲美人」を出発点とし、対馬暖流に乗って航行した種族の伝播であろう。京美人(丹波・山城)、加賀美人、越後美人(古志国)、秋田美人などの称(これらの美人には色の白い、肌のきめこまかい一定の型がある)があるが、太平洋沿岸地方にはこの称がない。これも古代の種族伝播の傍証の助けになろう。──ぼくらは、こういって、ときには笑い合った。  では、記紀にあって「出雲風土記」にないスサノオの八俣の大蛇《おろち》退治はどうか。この発想はインドシナあたりの説話の影響と思われる。多頭大蛇はインドからクメール文化圏の古い水の信仰である。カンボジアには、アンコールワットをはじめ、いたるところの寺院にナーガといって八俣の大蛇そっくりの多くの頭をもった大蛇の彫刻がある。ナーガの観念は前二千百年くらいにインドに起り、後二世紀ぐらいに原始仏教と共にインドシナ半島に伝播した。だから稲作を日本に持ってきたメオ(苗)族が、案外ナーガの説話も伝えたかもしれないのである。昔の人はヘビのことをナガムシ(長虫)といった。ナガイ(長い)という形容詞はナーガという外来語に由来しているかもしれない、と、ぼくらは笑う。  とにかくスサノオは大和王朝の祖と出雲の祖とを結ぶ説話上の接点としてつくられ、天照大神の弟であり、大国主命の父親という役が与えられる。そしてオロチ退治は宝剣献呈をいうための設定である。ところが八俣の大蛇は山岳渓谷の動物擬化であるとか、神籠石という山腹を幾重にもとりまく朝鮮式石塁の比喩だとか、または諸豪族をたとえたのだとかいう説があり、最近では大和の三輪山の形容だという珍しい説が出ているが、そう深読みすることはあるまい。もともと出雲族の服属を強調する宝物の朝貢起原の説話に、インドシナ方面の説話が借りられたのであろう。大蛇《おろち》の尻尾から出た草薙剣《くさなぎのつるぎ》は、のちにヤマトタケルノミコトが使用したのを熱田神宮におさめ、宝物としていたが、中世に神主がひそかに箱を開けてみたら、クリス型の銅剣だったという(「釈日本紀」所引)。これでは、出雲に砂鉄を求めるより、古代の銅山をさがさねばなるまい、とぼくらは笑う。  こういうことで、砂村保平とぼくはしばしば互いに訪れ合って話しこむのだが、ぼくらは前から記紀の説話で疑問を感じていることが一つあった。それは、とくに古事記のほうだが、神の死に、死体の部位や排泄物がこくめいに記されていることである。  その箇所を出してみよう。面倒だから各部位から「生《な》れる神の名」は省略する。  イザナミノミコトが生んだ三十四人目の神はカグツチノカミだが、「この子を生みしに因《よ》りて、みほと(女陰)炙《や》かえて病み臥《こや》せり。たぐり(嘔吐《へど》。吐瀉物)に生《な》れる神の名は×、次に×、次に屎《くそ》に成《な》れる神の名は×、次に×、次に尿《ゆまり》に成れる神の名は×」とあって、結局、イザナミは「火の神を生みしに因りて」死んでしまう。  女神の陰部、嘔吐、糞、尿などが遠慮もなく出る。  夫のイザナギは怒って妻を殺した子のカグツチの頭を斬る。 「殺さえし|迦具土神《かぐつちのかみ》の頭に成れる神の名は×、次に胸に成れる神の名は×、次に腹に成れる神の名は×、次に陰《ほと》に成れる神の名は×、次に左の手に成れる神の名は×、次に右の手に成れる神の名は×、次に左の足に成れる神の名は×、右の足に成れる神の名は×」  と身体各部分が列記されて陰部も出る。  夫のイザナギは黄泉《よみ》の国に行った妻のイザナミが恋しくなり、イザナミがとめるのもきかず、黄泉の家に入って灯でみると、イザナミの身体は、ウジがたかって、各部に雷がいた。  また、高天原を追放されたスサノオがオオゲツヒメに食物を乞うと、ヒメは「鼻口《はなくち》また尻より種々《くさぐさ》の味物《ためつもの》を取出して」いろいろ料理して出したので、スサノオはきたなしと怒り、ヒメを殺した。このときヒメの死体はこうなった。 「頭に蚕生《かいこな》り、二つの目に稲種生《いなだねな》り、二つの耳に粟《あは》生り、鼻に小豆《あづき》生り、陰《ほと》に麦生り、尻に大豆《まめ》生りき。故《かれ》ここに神産巣日御祖命《かみむすびのみおやのみこと》、これを取らしめて、種《たね》と成しき」  このような身体各部から神が生れたり、農作物が出来たりする説話の例は日本神話の独自のようである。近ごろは比較人類学が発達し、隣接各国や各地方の古い伝承が日本神話に伝わっていることがいろいろと分ってきたが、このような人体各部の記述をとくに見せた説話は海外にその例がない。北方系(蒙古、シベリア、中国東北部、朝鮮)にもないし、南方系(インドシナ、インドネシア、中国南部、ポリネシアなど)にもない。  この発想が日本独特のものだとすると、それはどういうことだろうか。  とくに女陰がしばしば出る。三輪山伝説がそうだ。神武天皇紀には、美人が厠《かわや》にしゃがんでいるときに、男が丹塗《にぬり》の矢に化けて、糞まみれの汲取口から侵入し、彼女の陰部《ほと》を突いた、とある。この姫神に生れた子にホトの名前がついたのでは困るから、改名したと書いてある。  書紀はこれを崇神天皇紀のこととし、記のホトタタライススキヒメがヤマトトトビモモソヒメになっている。このヒメは大物主神の妻だが、夫は夜しかこないので顔をよく見ることができない。強いてのぞくと、実は三輪山の主《ぬし》のヘビであった。妻のヒメは夫に恥をかかしたのを悔いる。 ≪則ち箸に陰《ほと》を撞《つ》きて薨《かむさ》りましぬ。乃《すなは》ち大市《おほち》に葬《はぶ》りまつる。故《かれ》、時の人、其の墓を号《なづ》けて、箸墓《はしのみはか》と謂《い》ふ。この墓は、日《ひる》は人作り、夜は神作る≫  このヒメは自殺の手段に、箸で自分の陰部を突いたというのである。  大物主神は、出雲神話の大穴持神(大国主神)で三輪山信仰が出雲系であることが分る。ヒメを葬った大市《おおち》の発音がオロチに似ているので、三輪山を八俣大蛇の舞台に思いついた人もあるかもしれない。だが、三輪地域に限らず、大和王朝に協力した葛城氏も平群《へぐり》氏も出雲系で、葛城氏の祖の武内|宿禰《すくね》が、出雲臣の系譜に入っていて、同系だということが分る。つまり、大和の豪族は先住種族の出雲系の残留者であって、かれらは独自の出雲信仰をもっていた。熊野神社は大和から紀伊に分布している。ところが、従来の天孫民族が王朝として強大に向う宥和《ゆうわ》政策の過程で、出雲信仰は大和王朝の宗教として奪取され、出雲そのものも帰属したので、もとのかたちが見えなくなったのであろう、とぼくはみる。つまり記紀の材料となったいろいろな伝承には、大和王朝の祖先のものがそう多くないと思われるのである。  だが、女陰のことをしきりと説話に出すのは、記の作者が好色だったのか、または出雲系の説話にエロティシズムの要素があったのだろうか。しかし、もし後者とすれば「出雲風土記」の古代伝承には猥褻《わいせつ》的な要素がなければならない。それが少しもないのである。 「ああ、こういうときに長谷藤八がやって来たらなあ。変ったことをいい出すかもしれないのだがなあ」  砂村保平とぼくは顔を見合せていうのだった。      5  長谷藤八はたいそう変った男である。彼は或る私立大学の仏文科を出ると、しばらく小説の翻訳をしていた。はじめはだれかの下訳をしていたのだが、そのうちにどうにか一本立ちの翻訳家になった。といっても二、三流の出版社で年に二回ぐらい本が出る程度だった。  そのうち、フランスの人類学者の何かの翻訳をやったのがきっかけで、ひどく文化人類学に興味をもつようになり、そのほうの勉強をやって、文化人類学の翻訳が三冊ほど出ている。目立たない出版社なので世評には上らなかったが、そのほうの専門家に聞くと訳はいいそうである。まだ二十三、四歳のときだった。  文化人類学から世界の古代史へ、それから日本の古代史へと興味が流れるのが普通の過程のようである。長谷藤八がわれわれの前に現われたのは、ちょうどそういう時期だった。  長谷藤八をぼくらのグループの会に引張ってきたきっかけは、いま結婚して大阪のほうに行っている河野啓子だった。啓子はそのころ砂村保平のいる教室の助手をしていた。この啓子の友だちに長谷路子がいた。路子は当時からどこかの出版社につとめていたが、歴史が好きで、われわれの集りに河野啓子に連れられてきたのだが、そのうち長谷路子は、わたしの兄がこの集りに出席させていただきたいと申していますが、よろしいでしょうか、と許可を求めた。われわれのグループは、べつだん学者の専門的な会ではないので、古代史に興味をもっている者には門戸を開放していた。  初めて会合に姿を現わしたときから長谷藤八は変った風貌にみえた。二十六歳と聞いたが、瘠せた蒼白い顔で、どこか老成していた。早くから翻訳などして生計を立てていたから、それなりに苦労していたのであろう。妹の路子とは三つ違いということだったが、この妹のほうも華奢《きやしや》な身体つきで、魅力ある顔をしていた。兄の藤八も妹に似た整った容貌だが、瘠せているためとげとげしい感じで、ちょっと凄味のようなものがあった。それは顔面の蒼白だけでなく、眼が異様に光っていることにもよった。  どこかお身体でも悪いところがあるのですか、と砂村が訊くと、 「いや、どこも悪くありません。ただ少しばかり睡れないだけです」  と、長谷藤八は尖った顎を心持ち上げるようにして、砂村を見つめ、昂然といった。こういう表情が彼の癖だというのが会うたびに分ってきた。妹の路子は、あとで、兄は睡眠剤を常用しているのですといった。藤八の顔色のよくないのはそのためのようだった。  長谷藤八の古代史に対する考えは、はじめは出なかったが、出席の回数が重なると、ぼつぼつその薄い唇から話し出された。ついでだが、ぼくは彼のややドモリ気味な話し方を思い出すたびに、そのうすい唇が真赤なのを眼に浮べることができる。顔色が蒼白いので、よけいにその赤さが引き立つのだ。  長谷藤八がぼくらの話に口をはさんだ最初は、「熊野」の問題だった。記紀の神話は、神武天皇の大和入りを熊野経由でさせている。これについては土酋と闘う神武を大和王朝の祖として英雄にする必要があったとする「英雄時代」説、太陽にさからうので河内経路を避けて紀州熊野に迂回したという「日の御子《みこ》」説、大和の「美《うま》し国」に入る前に深山荒野を踏破し賊を討ったという物語の構成上の効果説、はては宗教上の試練説などがこれまで出ているが、いずれも納得させるにいたっていない。  これに対し長谷藤八は、熊野のクマはコマ=高麗《こま》であるとする。これに「熊」の動物名を与えたのは記紀作者の蔑視観念から出ている。スサノオを祀る神社が出雲にもあり(出雲国|意宇《おう》郡|熊野坐《くまのにいます》神社)、紀州にもある(紀伊国東|牟婁《むろ》郡本宮熊野坐神社)ことから天孫民族(やはり半島よりの新渡来集団)が大和地方から先住の出雲民族の土地を収奪したのち、一方は西の出雲、一方は南の紀伊とその勢力を分断した。出雲に対しては「平和服属」の説話をつくり、紀州熊野には武力征服の説話をつくった。そのために神武の熊野征伐譚が必要であった。いわゆる「昔より|租禰躬《そでいみづか》ら甲冑をつらぬき、山川を跋渉し」(倭王上表)である。もともと出雲民族に対する武力征服が原形であったろう。その名残りが出雲は「根の国」であって、同じ巫俗《ふぞく》的な観念が熊野地方に対しても存在した。山岳|重畳《ちようじよう》とした熊野地方は古来神秘的なものに思われたが、この神秘性は「黄泉《よみ》の国」の概念にも通じる。これは出雲地方と紀伊地方とに分断される前の出雲勢力に対する大和王朝の見方が、まだ残っていたからである、と長谷藤八はいうのであった。  ちかごろ平安期の熊野信仰を補陀落《ふだらく》信仰に結びつけて、古代宗教を考える珍説が出ているが、補陀落信仰が房州鋸山、日光の男体山、相州鎌倉、肥後玉名郡の海岸と到るところにその遺蹟があるのを熊野の神秘性とどう関連づけるつもりだろうか。単なる思いつきにすぎない。しかも出雲国には補陀落信仰の遺蹟は一カ所もないのである。  こういう話からはじまって、長谷藤八はなかなか面白い説をあとからあとからと提出する。いささかドモリがちだが、それだけに妙な説得力がある。また、相当に勉強もしているのである。その道楽が病|膏肓《こうこう》に入ったというか、しきりと関係書を古本屋から買いこんできてはやっているらしかった。  そのうち、ふいと長谷藤八が顔を見せなくなった。それも二カ月か三カ月ぐらい来ないことがある。また、顔を出すが次には半年ぐらい来ない。妹の長谷路子はその間もときどきくるので、様子を聞いてみると、はじめは病気だといっていた。長谷藤八はまだ女房ももらわないで江古田あたりの安アパートに自炊していた。妹の路子も結婚せずに大久保のアパートにいる。妹はときどき兄のアパートに行って、その部屋を掃除したり、洗濯したりするので、兄の藤八の様子はよく分っている。  しかし、半年もこないとなるとよほどの重病だと思われるので、こっちから見舞のことをいい出すと、路子はあわてて、兄は旅行だという。それも誰にも行先をいわない放浪のようなものだといった。  そのあと、久しぶりに長谷藤八がくると、その様子はよほど元気になっていて、少し肥ってもいた。のんきに旅行をつづけたおかげですよ、と藤八はいっていたが、どこに行ったとははっきりいわなかった。旅をしたにしては顔色が依然として白い。そういう体質かも分らなかった。  彼がしばらく姿を見せなくなって現われるたびに、古代史の造詣《ぞうけい》が深くなっていた。専門家のはずの砂村保平がおどろくほどである。そして、ぼくらが考えつかなかった新説を出す。それがいかに新奇で、しかも肯綮《こうけい》にあたる説かは、その二、三例を出すと読者にも分ってもらえるが、長くなるので割愛せざるを得ない。  いったい、長谷藤八は何処に旅し、何処でそんな勉強をしているのだろうか。不自由な旅先でたくさんの本なんかどうして読むのだろうと、ふしぎであった。  そのうち長谷藤八の「旅」の秘密が分った。あるとき、砂村保平のところに警察署の刑事二人がきて、長谷藤八がお宅に伺っているそうだが、何か迷惑をかけていないか、と質問したのだった。砂村がおどろいて、何も迷惑をうけたことはない、いったい、どうしたのかと訊くと、長谷藤八は九州で泥棒をして捕えられたが、その持っていた手帳にお宅の名前があったので所轄署から問合せがあったというのである。聞けば長谷藤八は窃盗の前科が四犯で、今度重ねると五犯だという。犯行場所は四国、北海道、東北と遠いところばかりだった。──これは砂村がぼくにいった話である。  ぼくらはこれほどびっくりしたことはない。それはそうだろう、あの長谷藤八が窃盗の常習犯だったとは、想像もできないことだった。フランスの人類学者の著書を翻訳し、一応、世界の文化人類学の知識に通じているインテリである。日本の古代史の研究をはじめてから専門学者の砂村保平が驚くほどの勉強ぶりで、その新説は意表をつき、しかも一方《ひとかた》ならぬ暗示に富んでいるのだ。われわれは彼を天才に近い才能の持主だと思っていたくらいだ。瘠せた長い顔、蒼白い皮膚、異様に赤い唇、濡れたような眼の光り──そういう天才の風貌を長谷藤八はたしかに持っていたのである。  信じられなかったが、思い当るところはある。彼の「旅」が、二カ月、三カ月、半年とだんだん長くなっていたこと、行先を決していわなかったこと、旅をしたというのに陽にやけてなく顔が白かったこと、そして前よりは元気で肥えていたのは、睡眠剤をのまずに刑務所の規則正しい生活をしていたこと、などが合点されるのである。  さらにいうと、長谷藤八の勉強は刑務所の中で行なわれたにちがいない。思索には持ってこいの場所である。彼の天才的な閃きはそこから生れるのだろう。そう考えて、ぼくは奇妙な感歎をしたのだが、では、参考書はどうして手に入れたのだろうか。刑務所の中にはそんな本はない。ここにいたって、当然に長谷路子の顔が浮んできた。あの妹以外にその種類の書籍をさし入れする者はいない。たぶん、兄の藤八の手紙による注文で、その指定の本をその都度、各地の刑務所宛に送っていたのであろう。  こうなると、長谷藤八を救うためにも、一度、彼女に事情を訊いてみようということになったが、これは辛い話であった。どう話を切り出していいか分らない。迷っているうちに、砂村保平からぼくに電話がかかって、ちょっと、家に来てくれという。行ってみると長谷路子が涙顔で砂村の前にしょんぼりと坐っていた。きれいな女の泣いたあとの顔は美しい。彼女の話を聞くために、砂村は細君を使いに出していた。  今から三年前のことである。      6  兄には小さいときから悪癖があった、と長谷路子はぼくに話し出した。ひと通りは砂村保平に打ち明けたあとだから、彼女の声が跡切れがちになると、砂村が沈んだ声で補足した。  それによると、長谷藤八の盗癖は小学校のころからで、そのころは友だちの学用品を盗むという程度だった。学生時代は万引もしたらしいが、発覚はしなかった。べつだん金に困ったためではない。勉強も出来、頭のいい男だが、その習性は癒《なお》らなかった。本人も苦しんで、自ら矯正につとめたが、一種の病気のようなもので、つい悪癖が出てしまう。酒飲みの禁酒に似たところがある。睡眠剤を使い出したのはその誘惑を封じるためだったという。  長谷藤八は、自分の盗癖が直るまでは妻をもらわないことに決めた。未だに結婚しないのは改まらないからである。路子も結婚を延ばした。これまで恋愛の相手はあったが、兄の悪癖がおそろしくて結婚に踏み切れなかった。縁談もすべて断った。しかし、ただ一人の兄と絶縁する決心にもなれない。兄は自分に親切である。自分も兄を気の毒に思う。そうして、適齢期を過ぎるようになった。こういう兄を持ったのが宿命だと思って諦めている。  兄は他人の金品を偸《ぬす》んで刑務所に入ったが、たいした金額ではないから、刑期は短かった。三度目に刑務所入りしたころから兄に心境の変化がきたようである。それは刑務所の中を勉強や思索の場所として好むようになったことである。手紙で読みたい書物を指定するが、そのことごとくが人類学か古代史の関係書だった。もちろん不都合な本ではないから刑務所は許可する。また刑務所にくる講師の影響からかバイブルのさし入れを望むようになった。それも旧約聖書と、その研究書である。──  それを聞いて、ぼくにも砂村保平にも合点するものがあったが、路子の話をつづける。  ──兄は三度目の刑期を終えて出てきたとき、記紀の神話と、旧約聖書の内容とが奇妙に一致するといっていた。それからは両方をしきりと比較研究するようになった。兄のこの説は先生方もご承知でいらっしゃいましょうと、路子が濡れた、きれいな瞳をむけるので、ぼくらはうなずいた。  その通りである。長谷藤八は、ユダヤ説話の東漸《とうぜん》が日本神話を構成しているといい出したのだった。それを簡単に出す。  長谷藤八がそれを述べにわれわれの前に現われたのは、だから、彼の三度目の「長い旅」の終ったあとということになる。彼はいう。 「旧約聖書の創世記をよんで、ヒッタイト人の民話と記紀の神話とがたいへんよく似ている点が多いのに気づいた。ヒッタイト人は、紀元前二千年ごろにユウフラテスの渓流、カバドシア高原、およびシリアの地を占領し、西のギリシャ人と接触してこれにバビロン文明を伝え、旧約聖書に影響を与えた民族である。ヒッタイト人は旧約聖書にヘテ人として出てくる。  ヒッタイト人は岩窟の生活をしていた。これは日本神話の天の岩屋に似ている。ヒッタイト人は、羽を付けた太陽円形の鷲の像を遺しているが、これが日本神話では太陽と八咫烏《やたのからす》に分れて伝わった。  天孫民族が希望する葦原の中津国にはすぐに行かないで、筑紫の高千穂に降下したという神話は、ヒッタイト人がメソポタミヤに行かないで、南下してパレスチナを占領した事蹟に符合する。  ヒッタイト人は『柱』形をもって国王を象徴しているが、古事記で諸神の数を呼ぶのに一柱《ひとはしら》とか三柱とかいう。また、パレスチナの遊牧王や首長の称号は『ヒク』といっているが、記紀では神名の下に『毘古《ひこ》』『彦』の名を付けている。  旧約聖書の『バビロンの虜囚』は葦原の中津国に渡る前の天孫民族の雌伏《しふく》時代に似ており、『出|埃及《エジプト》記』は天孫民族軍の東遷に似ている。モーセの荒野を行く際に示した奇蹟は、神武の熊野山岳地方通過中の奇蹟と似ているし、モーセがイスラエルに達したとき歌ったというのは、神武が戦勝したときの久米歌と同じ設定である。  だいたい「創世記」の≪はじめに神は天と地とを創られた。地は形なく、むなしく、やみが淵のおもてにあり、神の雲が水のおもてをおおっていた≫というのは、古事記の、大地が≪国|稚《わか》く浮きし脂の如くして、海月《くらげ》なす漂へる時≫と似ている描写である。旧約聖書第十章の系図における人名の列挙は、記紀の神名の列挙と酷似している。こういうわけで、わたしは目下記紀に旧約聖書と、ヒッタイトの伝承とを求めています」  長谷藤八は、例の顎をつきあげたような表情で昂然と語ったものである。それからヒッタイト伝承と記紀の関連でヒントを与えてくれたのは石川三四郎の「古事記神話の新研究」であると明かした。石川三四郎は明治末期から大正、昭和初期にかけた高名な無政府主義者《アナーキスト》である。  長谷藤八の「新説」は、ぼくらを面白がらせはしたが、いささか索然とさせられた。あまりに奇抜過ぎるからである。それよりも従来通り日本の近接各地方の伝承との比較をやったほうが正統のような気がする。とくに朝鮮の「三国史記」の説話をもっと突っこんでやってもらいたい。ところが長谷藤八にいわせると古代の世界航行路に目をひらき、西から東への文明の経過を展望してこそ真に記紀の謎が解けるというのである。  このような警抜な説を吐いて、長谷藤八は四度目の「旅」に出た。五度目の「旅」の真相が砂村のもとに来た刑事によって判ったのは、前に述べた通りである。つまり、長谷藤八は刑務所の「旅」と「旅」の間にわれわれの前に姿を現わしては新説を吐き、また「旅」に潜伏しては思索研究していたのである。  今度入ったら前科が五犯になると刑事が砂村にいって帰ったあとに、長谷路子は兄の詳しい事情を打ち明けにきたのだが、われわれはお世辞でも同情からでもなく、長谷藤八の才能を惜しんだ。今度刑期を済ませたら自分らの手でぜひ彼を立直らせたい、というと路子はその好意を謝したが、兄のことは従前通り先生方は素知らぬふりをしておいていただきとうございます、兄にも面目がございますから、といった。  なるほど、われわれに裏の事情を知られたと分ると長谷藤八も体面があるまい、従来通り何ごとも知らぬ体《てい》にして、彼を長い旅から迎えたようにしたほうがいいかもしれない、ぼくらだってつらいから、ほっとするわけである。──しかし、それでは長谷藤八はいつまでも刑務所への出入りを繰返さなければいけない。 「実は、兄を救えるひとが居ります」  と、そのとき路子は思い切ったようにいった。 「それはだれですか?」 「河野啓子さんです。初めてこちらの会に出させていただいたとき、いっしょだった、わたしの友だちの啓子さんです」 「ああ、あのひとですか。けど、河野啓子さんは今は結婚して大阪のほうに住んで居られるとあなたから聞きましたが」 「兄は啓子さんが好きだったのです。啓子さんも兄が好きでした。でも、兄は自分の�悪い病気�を考えて結婚をあきらめました。啓子さんも、両親のすすめる縁談に従って大阪に嫁《とつ》ぎました。先方は古い海産物の問屋です。でも、啓子さんは兄を諦め切ってはおりません」  ぼくは、可愛い顔と華奢な身体をした河野啓子を思い出した。 「啓子さんは、お兄さんの�病気�のことを知っているのですか?」 「知っています」  と、路子は強くうなずいた。 「ですから、兄が出所すると、啓子さんが迎えに行き、兄の身柄を引取ることになっています」 「身柄を引取る?」 「啓子さんは、いまのご主人と離婚するつもりです」  路子の愁いの表情に、何か晴れやかな色が初めて流れた。妹は兄の仕合せを考えている。ひいては兄の呪縛《じゆばく》から解かれる自分の将来を考えてほっとしているのだろう。兄のために彼女も結婚を見送っていたのだ。 「兄さんの今度の刑期は、どれくらいですか?」  砂村が訊いた。 「まだ判決がありませんが、今度は長いと思います。四つも前科を重ねていますから情状酌量の余地は全然ないのです」 「弁護士はどういっていますか?」 「兄は弁護士を頼んだことはありません。今度もそうでしょう。いつも国選弁護人で済ませています。当人は旅の長いのは苦にならないのです。長いといっても、これまでは一年未満が最高でしたから。けれど、今度は五犯ですから三年以上になるのではないでしょうか。九州ですから、簡単に様子を見にゆくわけにも参りません。兄も私が行くのを嫌うのです。いつも手紙の上だけです」  路子は、また暗い顔になっていった。 「そうすると、今が昭和四十年の三月だね。刑期は三年にもならないでしょう。二年の刑期としても四十一年の暮までには出所できるんじゃないですか。所内の成績によって刑期が早まる恩典があるから」  ぼくがいうと、路子は重たげに首を振った。 「いいえ、累犯には恩典の適用がうすいらしいのです。それに……兄の今度の犯罪は強盗罪だそうです」 「強盗罪?」  ぼくはおどろいた。 「はい。入った家の人が眼をさましたので、騒がないでくれ、と兄はいったそうです。それが強盗罪になったのです。今度は三年ぐらいは九州の刑務所に入っていることになると思います」 「啓子さんは、それも承知なのですか?」 「知っています。三年も経たないうちに離婚して兄を待っているという手紙が大阪から参りました。大阪と九州はわりと近いですから、啓子さんは兄に面会に行ってそれを告げてきたそうです」 「兄さんの入っている刑務所に手紙は出せませんか?」 「それだけはお許しねがいます」  路子は頭をさげて、かなしそうにいった。 「兄の秘密は、どこまでもご存知ないふりをしていてください。兄が、先生方に真相を知られたと知ったら、もう顔出しができないと思います。先生方の集りに出て古代史のことをおしゃべりするのが、兄のただ一つの愉《たの》しみでもあり、生き甲斐なんです」 「ああ、そうでしたね」  ぼくらは、どこまでも長谷藤八が長い旅に出ていることにしなければならなかった。  長谷藤八は結局三年の刑がいい渡され、その一審判決に服した。彼は今年(昭和四十三年)の早春、満期をつとめて出所した。  しかし、長谷藤八は今度の「旅」を終えたあと、いつものようにわれわれの前にあらわれなかった。 「兄は、先生方に事実が知られたのを察したようです」  と、妹の路子が今年の四月にぼくらの前に来ていった。 「それで、恥じてお目にかかれないのです。いえ、口ではいっていません。あの通り、変った性格ですから黙っていますけど、わたしにはよく判ります。いまは九州の或るところに居ます。啓子さんもいっしょです。啓子さんは一年前に離婚なさいました。いま、二人はひっそりと暮しているようです。わたしは兄たちのいるところに行ったことはありません。文通だけです。……そのうちに、兄はきっと先生方のところに顔を見せると思います。古代史が好きで仕方がない人ですから」  ──ぼくらが、古事記には人間の肉体の部分に関する描写や、女性器に関する説話の多いのに抱いた疑問について、 「ああ、こういうときに長谷藤八がやって来たらなあ。また、変った説が聞けるのだがなあ」  といい合ったのは、このような事情からだった。      7  甥の木谷利一から聞いた松江市の宿帳の一件を砂村保平に話したことなどはぼくも忘れかけていたのだが、それから三週間ばかり経ったころ、今度は砂村がぼくの家にやってきた。それは四十三年の十一月の初めだった。 「この前、君がぼくの家に来ていっていたことだがね。ほら、君のかねての持論で、古事記に身体の各部分が出ることと、ホトの物語が多いことさ」  砂村はいい出した。 「ぼくも君が帰ったあと、いろいろと考えてみた。従来の通説だと女性の生殖器は生産の象徴として農耕関係の呪術的な信仰だろうといわれてきた。土偶などがいい例だね。しかし、物語にそれが出るのはどうも少ないようだ。日本神話に影響を与えたというシベリア、蒙古、中国、朝鮮の北方系伝承にも見当らぬし、インドシナ、インドネシア、ポリネシア地方の南方系にもないようだ。説話からすると南方系のような気がするがね。それで長谷藤八の考えを問合せてみたよ」 「長谷藤八に? 九州に手紙を出したのか?」 「いや、直接じゃない。君も聞いているように妹の路子さんがあの通り制止《とめ》ているからね。長谷兄妹の気持が分らなくはない。で、路子さんを通じて問合せの手紙を出したのさ」  妹を中継にしたのはうまい考えだった。これだと直接ではないから長谷藤八の羞恥心を多少でも柔らげることができる。むろん、その手段にしても、われわれの前に顔をそむけている長谷藤八の臆病を完全に拭い去ることはできないけれども、じかに接触するよりは彼の現在のひっそりとした平和を傷つけないで済む。ただ実妹経由にしても長谷藤八から返事がくるかどうかだったが、砂村の表情からみるとその回答があったようである。  果して砂村はポケットから手紙をとり出した。封筒は大久保にいる路子から砂村に宛てたもので、昨日附の速達だった。 「長谷藤八の封筒は路子さんがとりのけている。彼の住所を見られるのが困るんだな」  中身は七枚の便箋に、見覚えある長谷藤八の筆蹟がびっしり埋まっていた。 ≪雨のせいか昨今再び寒さがもどったようです。お問合せのこと、また小生の奇矯な愚見を揶揄《やゆ》されるお考えかとは存じますが、例によって例の拙論を御笑覧に入れたいと存じます。  以前に、旧約聖書の創世記と古事記の近似からヒッタイトの説話が小アジアから東アジアに伝わり、日本の原住民族の説話に入りこんだのではないかと考究したことがあります。古事記の材料となったのは、大部分が先住民族すなわち出雲系の民族の伝承が多いからです。  これについては石川三四郎氏の『古事記神話の新研究』などに詳しいので省きますが、小生などはこの本によってずいぶん教えられました。しかし、これはなにぶんにも昭和八年の出版であり、近ごろは当時からくらべて記紀の研究は比較民族伝承学や考古学、文献学で長足の進歩を遂げていますし、また、戦後皇室に関するタブーが解禁となっているので、それ以前の石川氏の説に限界があるのはやむを得ません。また石川氏の解釈の部分部分にはかなりな無理があることも否定できないのです。  小生は、ヒッタイトの伝承そのものよりも、その底流を伝えたと思われるコーランに古事記の類似を認めるものです。古事記とコーランとは東西にかけはなれているが、大体同じ時代でしょう。コーランは七世紀にできたもの、記紀は八世紀のはじめです。イスラム教の先駆はユダヤ教やキリスト教ですが、その祖型をなしたのがヒッタイトの説話ですから、そのヒッタイト説話がかえってマホメットによって根本を伝えたと思うのです。それはマホメット個人の力量ではなく、砂漠に住む民族共通の宗教的思念からです。つまり小アジアの砂漠地帯に生れたヒッタイトの神話が、アラビヤ砂漠地帯に住む民族に語りつがれ、同質の宗教となって、一つは西に移ってユダヤ教などになり、一つは東に伝播《でんぱ》して日本にきて古代宗教となった、と考えられます。したがって、コーランを調べることは、今はよく分っていないヒッタイト伝承の原形につき当ることだと思います。  コーランの特徴と古事記のそれとの近似を求めると次のようなことになると思います。  コーランはマホメットの説教を弟子がまとめたものですが、コーランの意味は朗誦のことです。この聖典は目で読むというよりも声高く読誦することです。コーランは神憑《かみがか》りの状態に入った一人の霊的人間が、恍惚状態にいて口走った言葉の集大成ということですから、古事記が稗田阿礼《ひえだのあれ》のような巫《ふ》者によって『誦み習はし』たのと似ています。つまり『諸家のもたる帝紀及び本辞』がそもそも巫者によって語りつがれたのであり、古事記も漢字になって目でよむよりも朗誦したほうが本質であり、聴く者を恍惚とさせたと思います。ヒッタイトの詩にはそれがあるのです。  コーランでは神と人間とを離し、その間に神が火で造った天の使者をおいている。古事記でも雷神とかカグツチノカミなどは純粋至高な神ではなく、神と人間の間に介在する自然の神や邪神としてあります。これらは火神です。火がどんなに神聖であるかは、神道でもよく分るでしょう。だいたい、神名の宇比地邇《うひじに》神、須比智邇神、甕速日《みかはやひ》神、豊日別などの『比』『日』は『火』の字に置きかえていいと思います。  イスラム教では予言者を信ずることにしている。神より遣わされた最後にして最大の予言者はマホメットですが、予言者はその以前にもいました。神の予言を信じること、これもアマテラスオオミカミやタカミムスヒノカミから命令をうけて中津国に天下る天孫の話や、三輪や伊勢や宇佐などの各神社の神託ということになります。  コーランは一人の男に妻四人までを認めました。大国主神が多くの愛人を持っていたこと、神武以下の帝王にたくさんの后妃《こうひ》が書かれているのも偶然ではなさそうです。  ヒッタイト伝承とイスラム教とが砂漠の宗教である以上、古事記にもその形がなければなりません。スサノオの『八雲立つ』の恋歌は雨雲の願いであり、大国主神の『井の神』の一事にも注目します。熱帯の砂漠地を旅行してこそ水のありがたさが分るのです。今までの記紀学者が、記紀に表われた水の信仰をすべて農耕生活に帰しているのは、大きな誤りだと思います。たとえば古事記に、井の傍に湯津香木《ゆつかつら》があったと書いてある。湯津香木は柚《ゆず》の木でしょう。柚とかオレンジとかは本来熱帯植物です。垂仁天皇の命でタジマモリが常世国《とこよのくに》から持ち帰った非時《ときじく》の香《かぐ》の木の実もオレンジです。またトヨタマヒメの従婢が玉器を持って水汲みに出たという玉器は一種の壺だと思われます。書紀の一書にはこれに瓶の字を当てツルベと読ませています。日本のツルベではなく、熱帯地方でみかける女たちの水汲みの大きな壺の反映でしょう。トヨタマヒメも従婢の運んだ壺から水を飲んだのでしょう。このへんは青木繁の『わだつみのいろこの宮』の名画を思い出してください。  さて、こうしてみると、古事記がヒッタイトの説話の影響をうけた伝承から成立していることが分り、ヒッタイト説話を知るには、ずっとあとで出来たコーランを手がかりにしたほうがよいことが分ります。お問合せの身体各部のことも、むしろコーランに求めたほうがヒッタイトの源流が分るような気がします。コーランには、『頭の上からも、足の下からも敵が攻めてくる。目はかすむ。心臓は喉もとまで上ってくる』とか『目には目を、歯には歯を』とかいう語、また『|陰部を大切にする女《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》』とか、『顔が焔《ヽ》の中でぐるぐる回《まわ》される』とかいった字句があります。  こうみるとコーランには古事記の面影がずいぶんと見られます。ただ、イスラム教がアッラーの神という一神であるのに対し、記紀にはたくさんの神が出てくる。だが、これは記紀の天照大神またはタカミムスヒノカミが超然万能の神とされている点では一神であり、他の神々は氏《うじ》の上《かみ》という天の神と人間の間を交流する使者神とも考えられます。  とにかく小生のコーラン研究はまだ入口にとりかかったばかりで、以上はヒント程度です。できるならこれからアラビア語を習って原文を見たいし、またヒッタイト学も、H・ビンクラーやB・フロズニなどの先学説から入ってみたいと欲張っています。とにかく希望ばかりが強いことです。  以上、とりとめのないことばかり書いてお答えにもなっていません。とりあえず御返事まで。 [#地付き]長谷藤八≫  ぼくは読み終って手紙を砂村に返したが、便箋が粗悪な紙質とみえ、ぜんたいが、何だかうす黒い印象で残った。長谷藤八は田舎に居住しているらしい。その手紙は砂村がすぐに自分の洋服のポケットに入れた。 「やっぱり長谷藤八は熱心だな。当っているかどうか分らないが、コーランが砂漠の宗教で、それをすぐにヒッタイトの伝承に結ぼうとしたところが面白い」  ぼくは砂村にいった。 「うむ。しかし、君の日ごろからの疑念にはあまり役に立たなかったな」  砂村がぼくに気の毒そうにいった。 「いや、ぼくはぼくなりにやってみるよ。……しかし、長谷藤八は、九州のどこにいるんだろうね?」 「さあ。そればかりは路子さんも秘密にしている」 「この手紙はいつ路子さんのところに来たのだろう?」 「おとといだそうだ。昨日、路子さんが送ってくれた」 「河野啓子さんといっしょに暮しているのだろうな」 「そうだろう。長谷藤八もなんのかんのといっても、そういう熱愛する女性といっしょに暮して幸福だよ」 「啓子さんも、婚家をとび出して彼といっしょになるなんて思い切ったことをしたもんだね」      8  ぼくらは、また出雲神話について語った。そして出雲風土記になくて、古事記にだけある説話の八俣大蛇《やまたのおろち》にふれた。大蛇の犠牲に供される櫛名田比売《くしなだひめ》の両親は足名椎《あしなづち》、手名椎で、これも足と手が名になっている。 「足名椎、手名椎はスサノオノミコトの妻の両親だから、出雲風土記に出てくれば、当然に神社に祀《まつ》られているだろうにね。出雲国のどこにもないわけだね?」  ぼくがいうと、砂村は、 「いや、あるよ。小さな祠《ほこら》がね。棒杭みたいなものが立っているだけだから目立たない」  と、直ぐにいった。 「へええ、そんなものがあるのかね。出雲風土記の解説書の附図にも見当らないようだが、それは何処かね?」  砂村は、ぐっと詰って、 「うーむ。……さあ、場所まではよく分らんがね」 「そうか。どうせ肥の河上だろうね。八俣大蛇を退治したところに住んでいたから。そうだ、鳥髪山の下に近いだろうな」  ぼくが想像をいうと、 「そうかもしれない」  と、砂村は早速にうなずいた。この話はそれきりとなって、ほかの話題に移った。  それから四、五日経って、甥の木谷利一がぼくの家にやってきた。 「叔父さん、とうとう津南儀十を発見しましたよ」  利一は、にこにこしているが勢いこんだ顔でいった。 「津南儀十」といえば、松江のA旅館に四十年五月二十七日に同伴で泊った男であり、あとで正体不明の男《X》に「大宮作雄」と宿帳を書き直させたと推定される人物である。 「ほう、どこに居た?」 「津南儀十」は、てっきり偽名だと思い、それも誰かの本名に近い作り名前だと考えていただけに、ぼくも意外だった。 「それがね、灯台下暗しですね。警視庁の警備課にいる警部補なんですよ」  甥はいった。 「警視庁に?」 「そうなんです。ぼくが会社の調査関係で警視庁に行ったら、ある部屋の前にちゃんとその名前の名札が掲《かか》っているじゃないですか。津南儀十だなんて、滅多に思いつく偽名じゃないから、あの宿帳のはこの警部補の名を知っている人物が借りたんですね」 「まさか本人自身じゃないだろうね?」 「それは、ぼくが津南警部補に直接きいてみました。警部補は松江市なんかには一度も行ったことがないといってました」 「ふうむ」 「そこでね、ぼくは前の大宮作雄氏の例があったので、津南さんに出身校を聞きました。津南さんは某私大の独文科を出ているんです。で、その卒業名簿を繰ってみると、科は違うが、同期の人に……なんと、叔父さんの知っている人の名前があるじゃありませんか?」 「なに、また、おれの知ってる奴がいたのか?」 「そうです」  甥はぼくの顔を見て、 「誰だと思いますか?」 「そんなこと見当がつくものか。誰かい?」 「長谷藤八さんですよ」 「えっ」  こんどはぼくが甥の顔をまじまじと見まもる番だった。 「長谷藤八さんの名は、叔父さんの話で聞いたことがありますからね。古代史に変った考えをもっている人だというのをね」  ぼくは唸った。前の「大宮作雄」も実在の人、「津南儀十」も実在の人物だった。しかも前者は、砂村保平と大学が同期、後者は長谷藤八と同期、どちらもぼくの友人である。 「宿帳の二つの名前が叔父さんの知っている人に関係がある。この二人が交叉《こうさ》しているところに叔父さんが存在しているわけですよ」 「おれが怪しいというのかい?」 「冗談ですが、第三者からみると、一応は疑われますよ」  冗談とはいえ、奇妙な現象になった。 「そこで、かりに津南儀十氏を知っている人物を設定するとすると、同期の大学卒業生の中にそれを求めることも可能です。その期の卒業生は各科をふくめて六百五十三人でした。つまり六百五十三分の一の可能性があるわけです。しかし、そのなかでも津南氏の出た独文科に最も可能性があり、次に科は違っていても津南氏を識っている人間ということになる」 「津南氏を知っているのは、大学の同期生ばかりじゃないぜ」 「それはそうです。が、そうなると無限にひろがって手のつけようがなくなります。極端な例をいうと、通りがかりに見た他人の家の標札の名前だって利用できますからね。……ま、そういうことで、ぼくは津南警部補のところにまた行って、長谷藤八という人を知っているかというと、津南氏は知らんというんですな。そして科が違ってたなら、知ってないのが道理だが、もしかすると、津南儀十という名が一風変ってるから、名前だけをおぼえられていたかもしれないというんです」 「うむ、うむ」 「そこで、ぼくも思い当るんですが、津南儀十の宿帳の名を二カ月後に大宮作雄に書き替えた動機ですがね、前には本人が知人の名前を借りたため、あとで危ないと思い返してその工作をしたのだとぼくは考えていましたが、ただ、それだけでなく、津南氏が警視庁につとめていることも思いだして、同じ警察畑だから危険だと感じたからじゃないでしょうか?」 「そうすると、その宿帳に津南の偽名を書いた男は、例の湯村温泉附近のバラバラ白骨の犯人かね?」 「犯人かどうかはまだ分らないが、関係がありそうですなア。だから、うっかりと宿帳に津南さんの名前を借用したものの、警視庁に勤めているのを思い出して、あわてて親密な人にたのんで、大宮の名と取り替えさせたのじゃないですか。当人らは、写しのほうが所轄署に行っていて、そこに津南の名前が残っていることまでは考えが及ばなかったのですね。もっとも写しが所轄署に提出されていることは普通の旅行者には分りませんから」 「そうすると、君は津南儀十と宿帳に書いたのが、長谷藤八だというのか?」 「そうはいいません。しかし、何百分の一の想定の中には入れます」 「うむ。その流儀でゆくと、二カ月後にその宿帳を大宮作雄の名とスリかえたのは、砂村ということになるな?」 「いや、そうとは限りません。叔父さんもぼくも、二カ月後にA旅館に行って宿帳の記名の取り替え工作したのが別人だと思っていましたが、同じ人物でもいいわけです。係の女中が病死して人相を聞かれなくなったのが残念ですが。……叔父さん、津南儀十と砂村さんの二人を知っているのは長谷さんですよ。もし、長谷さんが砂村さんの同期に大宮作雄という人がいると知っていたら、津南と大宮と両方の名を知っていることになりますよ」 「おい、ちょっと待て」  ぼくは甥の饒舌を封じ、眼を天井にむけて考えた。  女のバラバラ事件の発生は、昭和四十年の晩春から秋にかけてである(所轄署推定)。「津南儀十」のA旅館宿泊は同年五月二十七日であり、「大宮作雄」の取り替え工作をした人物の宿泊はそれより約二カ月後だから七月末であろう。旅館では、いずれも原簿を焼却処分にしているから、筆蹟が見られないが、いずれにしても、この両人の宿泊は、「晩春から秋」というバラバラ事件発生の期間の中に入っている。とくに、「津南」の宿泊が五月二十七日だから、犯行の前ということになる。「津南」はそのとき、宿帳には記名してない同伴者がいた(宿帳には同伴客でも一人だけの記入ですませるのが普通)から、その女がバラバラの被害者とすれば、五月二十八日の朝、松江の旅館出発後「津南」が犯罪を実行したことになって、時間的に理屈は合う。──ただ、この場合、検視の警察医が「晩春から秋の間」と被害者の死亡時期を大幅に鑑定しているのは残念だが、一年以上を経た白骨死体では死亡時の正確が期しがたいので、誤差を考慮して大幅にとったのであろう。地方の嘱託警察医ではやむを得ない。  だが、どっちにしても、長谷藤八には関係がない。なぜなら、長谷は昭和四十年三月に九州において強盗の罪で警察に逮捕され、三年の懲役判決を受け、九州の刑務所に服役していたからである。  ぼくが甥の利一にそういうと、彼は奇怪なことをいい出した。 「叔父さん、長谷藤八さんは、九州の刑務所に服役していませんよ」 「えっ、どうして、それが分る?」  ぼくは愕《おどろ》いて問い返した。 「津南儀十警部補にたのんで法務省の矯正局に問い合せてもらったんです。むろん、津南氏には事件の事情は打ち明けていません。そうすると矯正局では全国の刑務所長に宛てて問合せてくれたのです。結果は、長谷さんが前科四犯ということは事実でしたが、昭和四十年以来、九州だけでなく、全国どこの刑務所にも長谷藤八という名前の服役者は存在してないということが分りました」 「しかし、それは長谷君の妹の路子さんが……」 「それは妹さんがいってただけでしょう。妹さんの言葉だけでしょう。そのほかに客観的な裏づけがありましたか?」  甥にそういわれると、ほかの裏づけは何もないと返事せざるを得なかった。妹がいうことだから間違いはないと、砂村もぼくも信じこんでいたのだ。──九州の刑務所にいるはずの長谷藤八に、当人が恥しがるからという理由で、通信を禁《と》めたのも路子だった。  ぼくは、路子のきれいな顔と、その眼に湛えられている涙とを思い出して、頭を振った。砂村まで路子の虚言を信じていたのだ。 「どうして路子さんは、そんな嘘をわれわれについたのだろう?」  ぼくは半分は自分の胸に問うように呟いた。 「ふしぎですねえ。ぼくも、叔父さんの話だけですが、そのへんがよく分りませんね」  まさか長谷藤八がバラバラ事件の犯人で、妹の路子がそれを知って兄を庇っているのでもあるまいが。……いや、甥の推定では、どうやら、そうなるようだった。 「どうです、叔父さん、ぼくといっしょに近いうちに出雲に行ってみませんか?」  甥は、ぼくの顔色を見ながらいった。 「出雲に?」 「叔父さんは一度も行ってないでしょう。叔父さんの第二専門である古代史の実地踏査をしないという法はありませんよ。ぼくが案内します」  ぼくには、甥の下心がなんとなくよみとれないでもなかったので、気持は動いた。 「そうか。じゃ、思い切って、出かけてみるか?」 「そうしてください。飛行機で行けば米子空港まで二時間ばかりですから」 「砂村君もいっしょに連れて行こうか。彼も出雲にはまだ一度も行ってないといってたから」 「いや、砂村先生は、この次の機会にしましょう。今度は黙っておいてください。ぼくの推測も先生には一切いわないでください」  ぼくは甥の顔をみてうなずいた。──松江の宿帳に書き替えられた「大宮作雄」は砂村の大学時代の同期卒業生であった。砂村に疑惑をかける理由はなかったが、それでもこの一事は、津南儀十と長谷藤八の関連で彼の心に暗い翳りを与えるだろう。今度は砂村と同行しないほうがいいという甥の利一の配慮もそのへんにあるようだった。  甥が帰ったあと、ぼくのショックはひろがった。長谷藤八が四十年三月以来、九州の警察にも留置されず、刑務所にも服役してなかったとすれば、彼はいったい何処に居たのだろうか。  そして現在も九州の或る土地に、婚家を奔《はし》った河野啓子と同棲して、こっそりと隠れた生活をしているということだが、それは何処だろうか。しかし、考えてみると、これも路子の話だけなのである。──砂村が路子を仲介に、長谷藤八の手紙をつい一週間前に貰った以外は。──      9  二日の後、ぼくは甥の木谷利一と出雲路に入っていた。  松江のA旅館は宍道湖の湖畔にあった。しかし、ぼくらはその旅館を外から見ただけであった。中に入っても、いまさら「津南儀十」と「大宮作雄」のカラクリが分るはずもない。ここにいっしょにいる甥の「木谷利一刑事」が当時よく調べなかったのがミスだった。もっとも、湯村温泉の山林でバラバラ死体が白骨で発見されたのは、その一年後であり、そのときは甥も警察をやめて上京していたから事件のことが分らず、そのままになったのである。だから、甥が今、この調査に深入りするのもその責任を感じたためかも分らない。  ぼくらは、ともかく松江からタクシーで南に向い、八雲村の八重垣神社に行った。十一月の末で、飛行機の中でも新婚組が多かったが、縁結びの「八雲立つ出雲八重垣」の神社にも新婚さんは目立った。ぼくは、三年前には松江の宿で「津南儀十」と記帳した人物が、この風景の中にあるように同伴の女性と境内を歩いていたような気がし、それがいつの間にか長谷藤八と河野啓子の姿と重なった。──  次に熊野神社に向った。平野の田圃がせばまると山峡に入る。ところどころに村落があって、そこだけは舗装だが、あとは悪路だった。田は刈りとられ、山も紅葉がさかりを過ぎていた。神社の前には川が流れている。橋を歩いて渡ると、川沿いの並木の桜の木が梢だけになっていた。楼門をくぐって神殿に行く。  熊野大社はスサノオノミコトを祀《まつ》ったといわれるが、出雲風土記には熊野|加武呂乃命《かむろのみこと》といい、出雲国造神賀祠では加夫呂伎《かぶろき》熊野大社、櫛御気野命《くしみけののみこと》と呼ばれ、これらの神社は記紀には載せられてない。櫛を「奇《くし》」と解しているのが通説だが、ぼくはそうでなく、クシはクシフル(日向のクシフル岳)のクシと思っている。古代朝鮮語だろう。クシフル(※[#「木+患」、unicode69f5]日=書紀)を二つに分離し、クシに櫛の漢字を当てフルに布都(古事記)を当てているが、本居宣長は「古事記伝」に、布都《ふつ》を「物の残りなく清く断《き》れ離すさまを云ふ」とわけの分らないことを書いている。フルは朝鮮語の「火・村」の意であって、それが今では牟礼《むれ》という日本の地名になっている。紀伊の熊野坐大神が牟婁《むろ》郡に祀られているのも偶然ではなく「牟礼」も「牟婁」も同語幹から出ている。クシは古朝鮮語の山のある土地と思われ、「古志」国(越後)はこれから出ている。「御気野」を「御食《みけ》」と解して穀物としているのも疑義があり、農耕と解するよりも狩猟としたほうがいいのではないか。 [#地図p61(地図.jpg)]  ぼくは熊野神社の元の鎮座地だったという六一〇メートルの天狗山(熊野山)の麓にある市場の地形をタクシーの中から見たし、大原郡|海潮《うしお》郷(出雲風土記)に向う峠越えの際は、車をとめて俯瞰《ふかん》したが、市場部落は狭隘《きようあい》な谿間《たにま》の入口にあり、また現在の熊野神社のある宮内(地名)一帯が山峡なのである。それに熊野神社の神主さんにぼくが訊ねたら、同社では山の獣を射る狩猟の儀式が古くからあって、これを広く全国にPRしたいということだった。この言葉を聞くにつれ、また山岳に囲まれた地形を見るにつれ、「櫛御気野命」が農耕神でないというかねてのぼくの考えを強めた。やはり現地に来て見ただけの甲斐はあった。  峠を下って海潮郷に出た。途中で道が二つに岐れ、北の松江に向うほうに寄り道すると、その突き当りが須我神社であった。神社の前は寂しい商店街である。須我弥《すがね》命のスカは、朝鮮語のスグリ(村主)に語幹が求められそうで、アスカ(飛鳥)、カスガ(春日)の地名、スサ、スガ、ソガの神名や人名も同じ語幹の派生かと思われる。  こうしたことをタクシーの中や神社の境内でぼくは利一に講釈してやった。さだめしアクビを噛み殺して聞いているだろうと思われたのに、彼は案外に神妙に耳を傾けていた。  大東という町に出たとき、夕方になった。米子に着いたのは午前十一時だったが、松江からこの奥地まで見学をかねて来たので、思わず時間を食い、日の短い秋のことで、たちまちあたりが暗くなった。 「これから玉造温泉に行って泊るかな」  ぼくは勾玉《まがたま》の製造趾を見たかったのだが、甥は、 「玉造のような大きな温泉地は明晩のことにして、今夜は山間の湯村温泉に泊りましょう」  と提案した。それで、ぼくは彼の下心が分り、すぐに賛成した。白骨バラバラ事件の現地調査をしてみようというのである。  大東町から木次町に出て、南に向った。大東で鉄道線路に出遇ったが、木次からまた離れる。タクシーの走る道は木次線からずっと西に寄ってゆく。舗装はされているが道幅は狭く、左側は山、右手は渓流で杉木立越しに水が黒く見える。家の灯は見えなかった。  湯村温泉に着いたときは、ひなびた温泉ながら、明るい灯を見てほっとした。五、六軒しかない旅館のうち、なるべく大きな宿に入った。ここも出雲風土記には「漆仁《しつに》の川の辺の薬湯」として出ている。風呂から上って山菜やヤマメを肴に甥と盃をあげたが、心は給仕に出た女中さんに例の事件の話を聞くことにあった。  だが、二年前に発見されたバラバラ死体の骨のことは、ぼくらの知識以上には女中さんも宿の人も知っていなかった。その場所がここよりバスの通る道に沿って北に降ること一キロばかり、そこから東側の山を登り、尾根を越えると向い山との谷間になっている。いまは木も葉が少なくなり、草も枯れているので山には登りやすいということだった。そのへんまでご案内しましょうと親切な女中さんはいった。そして白骨死体の残りの胴体の下部と腰部、手の片方は未だに発見ができない、といい添えた。 「殺したのは男で、殺されたのは女だね。多分中年の男女だろう。そういう客がこの温泉に事件前に泊らなかったかね?」  ぼくはナゾをかけて訊いたが、白骨の発見当時、警察からもずいぶん訊かれたがどの宿も当時すでに一年以上前のことで記憶がなかったといった。また警察では各旅館の宿帳についた客の住所氏名をたよりにいちいち照会をしたが、三分の一は不明だったという。 「アベックのお客さんにかぎって、住所氏名が出鱈目なんですよ」  と、女中は笑った。どこも同じとみえるが、松江のA旅館に泊った「津南儀十」と他一名だけは別の意味をもっている。  川の音を聞きながら甥と枕をならべて睡り、翌朝眼がさめて部屋の外をのぞくと、「漆仁の川」(斐伊川)には霧がかかっていた。夜があけて初めてあかるい景色を見たのだが、裏側にはいくつも山が重なって霧に薄れ、また北のほうからも西のほうからも山が逼って、その山峡《はざま》の間を斐伊川が北に向っているのである。ぼくと甥は食事の前に川の吊橋を往復した。  朝飯の終った九時ごろは霧も霽れた。ぼくらは女中さんの案内で宿から小さな坂を上って国道に出た。そこはバスの停留所になっていて飲食店が一軒だけあった。バスは国道を南に上り、峠を越えて三成《みなり》の町に行って引返す。  ぼくらは道路を反対に歩いた。山裾がつき出ているので、道はいくつも曲っている。左側は川で、道路の下に杉林がならんでいた。昨夜バスの中から見たのがこれだった。  山裾から斜面を上った。尾根までは急|勾配《こうばい》でちょっと苦しい。若い女中さんと甥は楽々と登った。やはり杉が多い。草が枯れているので足を運ぶのに助かった。ようやく尾根に出た。なるほど向うにもう一つの山がある。その山の背後にいくつもの山の稜線が重なり合っている。ここは山深いところであった。 「このあたりでした」  と、女中さんが谷間に降りて指したのが杉木立の中だが、やや平らになったところで、まわりには潅木などが低く繁っていた。草は黄色くなって折れたり、短くなったりしていた。女中さんは、髑髏《どくろ》と胴体の骨はこの辺、片手はここ、両脚の骨はこの辺でした、と現場検証のように詳しくいった。この谷間から左右を見ると、両方とも山の斜面がここに落ちこんでいる。せまい空は秋のきれいな空気に澄んでいた。枯草の匂いがしきりと鼻に漂ってきた。 「両脚の骨が、八の字型に、ちょうど股を大きく開いたように草の上に置かれていたんですね?」  利一が訊いていた。 「はい。そうだそうです」  女中さんは顔を赧《あか》くして答えた。 「そして、両脚の付け根のところ、腰の骨とその上部の骨とがどこかに行って無くなっていたんですね?」  甥は警官時代に戻ったような調子で訊いた。 「はい」 「そうすると、両脚の上は何もない。少し離れて胸部の肋骨が髑髏をつけて残っていた。だから腰のところは草だけの空白だった。……けど、その腰の骨があるはずの草には、麦が三、四本短く生えたままで立ち枯れていたそうですね?」 「そういう話でした」  そのことは、ぼくも前に白骨発見時のことを甥から聞いて知っている。 「こんな場所に麦が生えるのですかねえ! 麦をつくっている畑は、いちばん近くでどの辺ですか?」 「だいぶんはなれています。この山を国道のほうに越した下のほうですから。でも、犬か猿が歩いているとき、麦畑から穂を身体の毛につけてここに落したかもしれません。この辺は、人がこないところですから」  それもぼくは甥から前に聞いていた。 「ふうむ。それにしても、よく合うなア」  と、甥は呟いて歩き出し、もとの斜面へ登りはじめた。このときは、ぼくも「よく合うなア」という甥の呟きの意味に本当は気づかねばならなかった。  ぼくらは女中さんといっしょにもとの尾根を越えて、国道へ降りる急斜面を下った。下の道を宍道と三成通いのバスが白い屋根を秋の陽に光らせて走っていた。  その国道に降りると、自転車に乗った中学生が五人、ひとかたまりになって通りかかった。女中さんとこの辺の中学生とは顔見知りである。中学生はぼくら二人の姿を見て、 「アシナさんを見に行ったのか?」  と、土地の言葉で女中さんに聞いた。女中さんが笑って首を振ると、中学生たちはペダルを踏んで走り去った。  ぼくは、アシナさんは芦名さんという人だろうと思ったが、人を見に行った、といういい方は、いくら方言でもおかしいので、 「アシナさんというのは何だね?」  と女中さんにきいた。 「アシナさんは神さまの祠です。すぐそこにあります。ヤマタノオロチに食べられかけてスサノオノミコトに助けられたイナダヒメのお父さんとお母さん神です」  足名椎、手名椎と知って、ぼくはぜひその祠を見せてもらいたいと女中さんを急《せ》き立てた。  祠はそこを五十メートルとは引返さないところにあって、国道のそばにある。山の斜面にかかったところで、杉林の中に木の柵でかこわれていた。が、祠とはいえなかった。古い木標に「足名椎命・手名椎命」と書かれ、その墨の字もうすれていた。土地の人に教えてもらわなければ、絶対に分るものではない。それにしても神話で有名な大山津見神の子夫婦が、何と見すぼらしい恰好で祀られていることか。ぼくは、やや呆れて杉の樹の下のうす暗い木標を見つめた。  こんなところに足名椎、手名椎の墓(?)が在るとは知らなかった。記には、鳥髪に降ったスサノオが川に箸が流れるのを見て肥の河上を上り、二人と娘のイナダヒメに会う。鳥髪山は現在の鳥上山とされているから、もっと東南の横田地方でなければならない。それは砂村とも話したことだが。  ……ぼくの頭に光が裂けて奔った。砂村はあのとき、足名椎、手名椎の祠は「棒杭が立っているだけだ」といった。いま、ぼくの目の前に見えている通りのことを砂村はいったではないか。──実際にここを見た者でなければいえない言葉である。しかも、どんな島根県の観光案内書にも、この祠の光景までは出てない。  砂村は、前に此処に来たことがあるのだ。それなのに島根県には一度も行ったことがないといい、この祠も何処にあるか知らないといっていた。──そうだ、今にして思い出す。あの話のとき、砂村はうっかりと足名椎、手名椎の祠が出雲にあると口を辷らしたのだ。よくあることで、人は知っていると、話に、つい、舌が釣り出される。そういったあと、砂村は激しく首を左右に振って、出雲のどこにあるか知らないと答えたが、あのときの表情は、しまった、うっかりしたことを洩らした、という後悔だったのだ。  なぜ、砂村は、ここに来たことがあるくせに、出雲には一度も行ってないといい張っているのか。前に此処に来たことを人に知られてはいけない事情があったのか。  当然に、ぼくは、この山上のすぐ向う側の谷で行なわれたバラバラ事件に結びつけてみる。もともと「大宮作雄」の大学時代の同期生が砂村ではなかったか。長谷藤八がA旅館の宿帳に、うかつにも大学時代の同期生の名を使ったように、二カ月後にそれを取り替えに行った砂村が、同じ心理で、自分の大学同期生の名を浮ぶがままに利用した、といえないことはないのだ。長谷藤八と砂村保平の間柄が、ぼくの眼には二つの影の接近になって映ってきた。  長谷藤八の蒼白い皮膚と、赤い唇と、狂的な眼と、異常な性格を思い浮べたとき、ぼくは、さっき谷間で甥が呟いた「それにしても、よく合うなア」の言葉の意味も理解してきた。「合う」というのは古事記の記載とよく合致する、と彼は感嘆したのだ。 ≪須佐之男命……大宜津比売神《おおげつひめのかみ》を殺しき。故《かれ》、殺さえし神の身に生《な》れる物は、頭に蚕|生《な》り、二つの目に稲種生り、二つの耳に粟生り、鼻に小豆生り、陰《ほと》に|麦生り《ヽヽヽ》……≫  失われた腰の骨は陰部もあるところだった。その位置に、まさに麦が生えかけていたのである。  ここで、ぼくは、初めて腰部の骨が犯人によって持ち去られている理由を知った。それは山の動物がくわえて去ったのではない。まさに、その部分の位置の地に「麦|生《な》」らせるために、邪魔になる腰部の骨、つまり骨盤を犯人が取り去ったのである。  これは、古事記にある女性死体の神話儀式だ。これが現代において行なわれたのだ。こういう変質的なことをするのは一人しかいない。長谷藤八以外にだれがいよう。      10  憂鬱な旅の残りがつづいた。甥の利一はこれから木次に引返し、警察署に行って白骨事件のことをよくきいてみようといった。ぼくは警察には行かなかった。行っても仕方がないというよりも、これ以上に警察の捜査を聞くのが怕かった。じゃ、叔父さんは疲れたでしょうから、此処で何か食べて待っていてください、と利一はいってぼくを木次駅前の大衆食堂に置き、ひとりで出て行った。昼を過ぎていたが、食欲はなかった。コーヒーは水っぽかった。風邪をひいたときのように、身体がだるく、微熱を感じた。  犯人が長谷藤八だとすると、砂村の役割は何だろうと、ぼくはテーブルに肘を突き、頭に手をやって考えた。──彼は共犯ではない。しかし、長谷から犯行を打ち明けられ、二カ月後に松江市のA旅館に行き、宿帳の「津南儀十」を「大宮作雄」に書いてスリかえた人物Xだったのだ。砂村は、大学時代の同期で、それほど親しくなかった「大宮作雄」の名を不用意に使った。彼が出雲の各地を回ったのは多分そのときだろう。砂村は、長谷の犯罪を庇《かば》ったから、その出雲行がぼくにはいえなかったのだ。  では、被害者はだれなのか。河野啓子しかいない。──四十年三月に長谷藤八は刑務所などには入らなかった。彼は実際に長い旅に出たのである。そのとき彼はすでに婚家を出た啓子といっしょだったにちがいない。だから、長谷の出所を待って同棲したという長谷の妹の路子も嘘をいっている。ぼくは今まで、砂村が路子の嘘にぼくと同様に欺かれていたと思っていたが、これは甘かった。砂村はむろん事情を知っていた。路子の虚言に調子を合わせてぼくにトボけていたのだ。砂村も路子も、長谷藤八の犯罪を隠蔽《いんぺい》する上では共謀だった。  長谷と河野啓子とは、ぼくの知らない土地(あるいは本当に九州かもしれないが)そこで同棲したが、うまくゆかなかった。たちまち愛情に破綻を来たしたのだろう。長谷の最後の「長い旅」への出発が四十年の三月だった。(実際、長谷はその年の二月にはわれわれの集りにきていた)河野啓子を殺したのが五月二十八日以後だから、わずか三カ月そこそこである。長谷藤八は啓子に憤ることがあったのだろう。あるいは啓子の別れた夫が原因で、激怒したのかもしれぬ。  長谷藤八は変質者だ。古代史に対する、あの飛躍した考えも、犯人の発想といえなくもない。コソ泥で何度も刑務所に入ったのも常人の性格ではない。しかも彼は古事記にとり憑かれていた。彼は、素知らぬふりをして啓子を誘い、松江に泊ったあと湯村にやって来た。あの山の谷間で啓子を殺し、死体をばらばらにした。胴体の下半分は持ち去って、どこか分らぬ場所に埋めたのだろう。その部分だけでは怪しまれるので、片手もいっしょに隠し、山を歩く動物がくわえて行ったように見せかけたのだろう。  長谷は死体の胴の下半分に当る地面に麦を播《ま》いた。麦を──長谷は啓子を大宜津比売《おおげつひめ》にしたのである。……スサノオが大宜津比売を殺したのも、待遇の悪いのを憎んだためだった。長谷は啓子への憎悪を古事記の殺人儀式に藉《か》りた。コーランも「眼には眼を、歯には歯を」という肉体的憎悪を説く。長谷の変質者的性格に砂漠の復讐精神が加わる。さらに日本神話の形式が加わった。──それとも彼の狂いかけた頭は、ほんとうに啓子のホトに麦の生《な》るのを見届けようとしたのだろうか。  一時間ばかり経った。利一が浮かぬ顔で戻ってきた。 「警察に行って当時の捜査員の話を聞き、白骨を検視した嘱託医にも会ってきました。お年寄りの開業医でしたよ」  聞きたい興味も起らなかったのでぼくは黙っていた。身体がだるかった。  だが、その晩、玉造温泉の宿で、ぼくは胸におさめきれずに自分の推定をいった。甥はぼくの顔を気の毒げな眼で見た。 「叔父さん。河野啓子さんは大阪の海産物問屋の若主人とは三年前に別れてはいますが、再婚して岡山に元気でいますよ」  甥は意外なことをいった。 「ぼくは調査したんです。間違いありません」 「じゃ、あのバラバラの白骨死体は、い、いったい誰だ?」 「女じゃありません。男です」 「男?」 「ぼくは最近になって、胴体の部分が現場から匿されている理由に気がついたのです。どうして早くこれに気がつかなかったのか、ぼくもどうかしていました。……いいですか。白骨死体の性別を法医学的に知るのは骨盤です。骨盤は、女性では広く、男性はせまいのです。また、恥骨角は、男性では鋭角で、女性では鈍角です。つまり、骨盤を見ただけで性別鑑定が決定的になるのですが、あのバラバラの骨には骨盤の部分がなかった。さっき、検視の嘱託警察医に会って話を聞いたら、ほかの部分の骨が男性にしては華奢《きやしや》な印象だから、女性と推定したというんです。しかし、医者の鑑定に影響を与えたのは現場にあった片方の女靴でしょう。それが鑑定に先入観を与えたと思います。下手人が死体の衣類を全部剥いで、所持品も持ち去ったのは、男だというのを分らなくするためでしょう。わざと女靴を片方だけ残しておいたのは、胴体下半分の部分、手の片方といっしょに靴の一方も動物がくわえて行ったように見せかけたんです。犯人は、あそこの地形なら、二年でも三年でも死体が分らずに済む、発見時には白骨となっていることを予想して、頭も、胸部も残したんですね。胴体の下を持ち去っても、顔と胸を見ればすぐに男か女か判ります。だから、その肉体が完全に液体となって地面の下に吸いこまれるまで、発見はないと思ったのでしょう。強い自信です」  ぼくは、かすれた声でいった。 「では、白骨死体は、長谷藤八か……」 「そうです」  と、利一は眼といっしょにうなずいた。 「しかし、長谷の骨にしては分らんことがある」と、ぼくは頭痛を抑えていった。 「一週間前に、長谷の手紙を砂村から見せてもらった。古事記に性器や身体の部分の名が多いのについて、砂村が路子さんを通じて長谷に問合せた回答だ。長谷はその手紙に、コーランと比較していた。たしかに長谷の筆蹟だったよ。砂村は前日、路子さんがその手紙を同封して送ってくれたといっていた」 「叔父さん、その手紙には長谷さんの封筒も同封してありましたか?」  甥は、しばらく考えてからぼくに聞いた。 「いや、それは同封してなかったな。中身の手紙だけ見せられた」 「その手紙の末尾には、年月日がありましたか?」 「ない」 「手紙の書き出しの文句はどういうことでしたか?」 「雨のせいか昨今再び寒さがもどってきました……そういう文句だった」 「再び寒さがもどってきた? それはヘンな時候の挨拶ですね。≪再び寒さが戻ってきた≫というのは冬か早春の文句ですよ。十一月初旬の挨拶じゃありませんね。それに、十一月中旬までは全国的に暖かい日がつづきました。≪再び寒さが戻る≫どころじゃありませんよ」 「………」 「末尾の文句は、どうでした?」 「取りあえず御返事まで……だったと思う」 「それもヘンですよ。砂村さんには三年も会ってない久しぶりの手紙ですから、冒頭にも、ご無沙汰していますが、お変りありませんか、といった文句があっていいし、末尾も、またいつかお目にかかります、お元気に、というくらいの文句があっていい。それに路子さんを仲介してるのなら、妹を通じ、という言葉も書かれていいわけです」 「………」 「その手紙の便箋は新しかったですか?」  ぼくは、砂村の見せた便箋が、なんとなく黒っぽかったのをおぼえている。それは田舎のことで紙質が粗悪なためだと思っていた。が、いま甥にいわれてみて、はじめてそれが古い手紙だということに思い当った。  砂村は、ぼくの久しい間もっている疑問を知っていたから、数年前に長谷に問合せた返事を保存していたのである。それを一週間前にぼくの家にわざわざ来て返事を見せ、いかにも現在長谷藤八が生きているようにぼくに思わせたのだ。そういえば、あのとき、砂村は急いで手紙をポケットに戻した。  砂村と路子の計画は三年以前からだったのだ。…… 「長谷が殺される原因は何だ?」  と、ぼくは憂鬱な声で訊いた。 「叔父さん。それは長谷さんが詰らない窃盗罪なんかでたびたび刑務所に入っていたことと関係がありそうです。それも古代の風習に関連がありますよ」 「古代の?」 「近親相姦でしょう。兄が妹に通じていたのだと思いますよ」  ぼくは自分でも顔色が変るのが分った。思い当るふしがないでもない。長谷と路子とは、わざとアパートを別々にしていたが、長谷はよく路子のところに泊りに行っていた。  路子も長谷のところに掃除や洗濯に行っていた。 「兄は自分のその悪癖をもてあまし、妹のもとに行ける自由を刑務所入りで自ら拘束していたのです。それ以外に考えようはありませんね。妹は、兄の悪癖に苦しんでいたのです。遁げようにも、狂熱的な性格の兄では、駄目だったと思います。そこに四回目の服役を終えた兄が刑務所から出てきたのです。兄が≪長い旅≫から帰ると路子さんの地獄がはじまります」 「砂村と路子さんは、長谷の出所前から恋愛していたんだな?」  ぼくは砂村と路子とが対座していたときの情景を思い浮べた。 「と、思いますね」 「松江のA旅館の同伴者は、長谷藤八と妹の路子だったのか?」 「そうです。長谷さんが大学時代の友人の名前を宿帳に書いて、あとで、それを妹にいったのでしょう。で、路子さんがあわてて、アシがつくのをおそれて砂村さんに頼み、二カ月後の宿帳記名取り替えとなったのでしょう。その砂村さんが、また自分の大学同期生の名を使ったのは、これだけでは自分に危険はないと考えたことでしょうが、やはり天の摂理です」 「天の摂理?」  ぼくは聞き咎めた。 「そうです。そのとき、砂村さんが路子さんの頼みで松江にはいっしょに行っていたのです。もちろん宿は別ですが。だから、砂村さんの出雲行は前後二回ですね。松江から先は砂村さんが兄妹のあとを尾行し、あの湯村の山林で犯行をしとげたと思うんです。女靴の片方は、路子さんの古ものでしょうね。死体をバラバラにした道具の鋸や包丁は、男ものの大型トランクには入ります。長谷さんの着ていたものは、二人ぶんのトランクに詰めて帰れたでしょう。現場が出雲風土記の土地だったのも、偶然の因縁でしょうが、そこを訪れたいというのは長谷さんの意志だったでしょう。……叔父さん、あの、麦のことですがね。あれは、やっぱり偶然に麦の種があそこに動物か風によって運ばれて落ちたんだと思いますよ」  ──ぼくらが帰京して一カ月後、砂村保平と路子とが、吉野の山中で心中を遂げたとき、ぼくは古事記の一章を思い出した。 ≪蛆《うじ》たかれころろきて、頭《かしら》には|大 雷《おほいかづち》居り、胸には火雷《ほのいかづち》居り、腹には黒《くろ》雷居り、陰《ほと》には拆《さき》雷居り、左の手には若《わか》雷居り、右の手には土《つち》雷居り、左の足には鳴《なり》雷居り、右の足には伏雷居り……≫ [#改ページ]    奇妙な被告      1  事件は単純にみえた。秋の夜、六十二歳になる金貸しの老人が、二十八歳の男に自宅で撲殺された。犯人は老人の手提金庫を奪って逃げ、途中で金庫を破壊して中の借用証書二十二通の中から五通を抜き、その手提金庫は灌漑用の溜池に捨てて逃走した、というものである。  宅地の造成がすすんでいる東京の西郊だが、そのへんはまだ半分は田畑が残っているという地帯だった。  若い弁護士の原島直巳が、所属する弁護士会からこの事件被告の国選弁護を依頼されたとき、あまり気がすすまないのでよほど断ろうかと思った。ほかに三つの事件(これは私選の弁護)を持っているので相当に忙しい。それを理由に辞退してもよかったが、弁護士会の事務長が、実は所属の他の弁護士がいったん引き受けたのだが、急病で断ってきた、公判も間もなくはじまる予定で裁判所も当惑しているから、できるなら引き受けていただきたい、事件は単純だから適当にやってもらって結構、と、あとの言葉は低くいった。  国選弁護人は、いうまでもなく私選弁護人の付かない被告人のために国でこれを付けるようになっていて(憲法第三七条第三項)、これを受けて刑事訴訟法では、被告人が貧困その他の理由で弁護人を頼むことができないときは、裁判所は、その請求によって、弁護人を付さなければならないと規定されてある(刑訴法第三六条)。弁護人の費用は、国が支弁してくれる。  したがって弁護料はひどく安い。忙しい弁護士は引き受けたがらない。裁判所から弁護士会に依頼される国選弁護は、弁護士会で順番に所属各弁護士に割り当てることになっているが、断るのは各自の自由である。しかし被告人の利益のためという人道的な公共性があるため、また憲法の規定にあるので、まるきり拒否することはできず、自然とそれが若手の弁護士や、それほど忙しくない弁護士のところに回ってくる。  国選弁護人は、弁護士にも被告人にも双方に評判がよくない。何といっても弁護料が安い。安いから国選弁護人は多く事件をかかえて数でかせぐよりない。そうすると、弁護が粗くなって、被告人側からすると国選弁護人は不親切だ、通りいっぺんで、義務的な弁論しかしてくれない、という非難になる。  この悪評のために、国選弁護人も「名誉回復」のためか以前よりよほどよくなったとの評判を最近聞くようになった。  弁護士からすると、国選でも事件そのものが面白ければ、たとえ手弁当でも費用持出しででも進んで引き受けるだけの情熱が湧く。つまりいい意味の功名心が働くのだが、平凡な事件だと、どうしても意識の上で「員数主義」にならざるを得ない。国選弁護をいくつも抱えこんでいるため、公判開廷前に訴訟記録を斜め読みにし、法廷で被告人と初めて対面した上、弁護をぶつといった国選弁護人の姿は、いまでは一時期のようなことはなくなったけれど、弁護料が高くならない限りこの弊風は拭えない。  金貸しの山岸甚兵衛を殺害した容疑の植木寅夫被告の国選を引き受けるとき、弁護士会の事務長が、事件は単純だから適当に、と原島直巳にいったのは、その習慣的な意味もあった。  さて、原島はまず本件の起訴にかかわる関係書類や捜査記録類を読んだ。その知識で得た内容はこうである。  被害者山岸甚兵衛は、もとかなりの農地を持っていたが、これを土地会社に売り、その金の一部で他の場所に二階建一戸の住居を建て、あとの金で小口の金融業をはじめた。これが今から約十年前である。甚兵衛には子がなく、妻も三年前に死んで現在は独り暮しであった。  二階は若い小学校の教師夫婦に貸している。欲が深いという評判の甚兵衛が格安の部屋代で夫妻を二階に住まわせているのは、その若い教師が柔道二段だからで、つまりは要心のためだった。  独り身の老人だから単にそれだけではふしぎはないが、山岸甚兵衛は高利貸の常として、貸金の相手にかなり因業《いんごう》なことをしてきている。金を借りているのは新開地の小さな商店が多い。私鉄の沿線ではあるが、人口が充分にふえたとはいえないので、商売もまだそれほど発展はしない。それで自然と山岸甚兵衛から高利を承知で金融してもらうのだが、無理がつもって破産したものもあり、なかには停年後、退職金で店を開いたが、結局、店舗を敷地ぐるみ甚兵衛の担保に奪われたものもいる。彼のために苦しめられている借主は同じ沿線のほかの土地にも多かった。  甚兵衛は泥棒だけではなく、多くの人から恨まれていることをよく知っているので、その警戒のためにも二階の柔道の強い小学教師を用心棒に「傭って」いたのだった。  ところが、その小学教師夫婦が郷里の母親が危篤という報せをうけて十月十五日から帰省した。凶行は十八日に起った。  甚兵衛の死体は十九日朝、近所の人が発見した。入口の戸が開いていた(他の雨戸は全部閉まっていた)ので、用事のあったその人が入口から中の土間に入ると、甚兵衛はすぐ横の八畳の間に俯伏《うつぶ》せになって横たわっていた。声をかけたが返事がない。それで所轄署に知らせた。  死体の解剖結果からさきにいうと、死因は後頭部の強打による脳震盪と脳内出血である。後頭部の頭骨は、ほとんど掌《てのひら》大ぐらいに平らに陥没している(骨扁平化の状態)。致命傷はこの頭部に加えられた攻撃だけである。甚兵衛は前に倒れ、匍いつくばった状態で死んでいたから、後から不意を襲われ、倒れたのちも手と膝で少しばかり這ったようだが、そこでこと切れたことが分る。  胃袋の中の消化状態を見ると食後三時間くらいだった。自炊の甚兵衛は夕食をいつも六時ごろにとる習慣だから、だいたい九〜十時の犯行と推測された。これは解剖医の死後経過時間の推定とも一致した。  次は屋内の状況である。室内はほとんど荒されていなかった。ただ、甚兵衛がいつも手提金庫を置く隣の六畳の押入が襖一枚開けられ、その金属製黒塗り手提金庫が見えなくなっていた。この金庫には甚兵衛が金を貸した相手からとった借用証書其他の書類が入っていた。  蒲団がそこに敷かれてあったが、掛け蒲団は半分めくられている。枕にも敷布にも皺《しわ》が残っている。が、乱れてはいない。この状態は、甚兵衛がいったんは床に入ったものの途中で起きて八畳の間に出たことを示した。甚兵衛はいつも九時には就寝する癖がついている。(二階の小学教師夫婦の証言)  甚兵衛が寝ているところをだれかに起されたであろうことは、入口の戸が内側から一枚開いていることで分った。戸は樫の心張棒で斜に突っ張っているのだが、その心張棒が外されて横に立てかけてある。内から戸を開けたのは甚兵衛以外にないから彼である。  そこで、誰かが訪問し、甚兵衛がその者を中に引き入れたのであるが、相手は面識の人間、それもよほど甚兵衛の知った人物と思われる。というのは、あれほど要心深い彼が、それもいったんは蒲団に入ったところをわざわざ起きてまで、夜の九時ごろに中に招じているからである。  山岸甚兵衛には浮いた噂はなかった。年齢もそれほど老いたというほどではないのだが、それが彼の性格なのか、あるいは吝嗇《りんしよく》の故か、若い時分から女遊びに興味はなかった。すると午後九時ごろの訪問者は男ではないかということになる。  近所の人の話では、九時ごろに甚兵衛の家の戸を叩いたり、外から呼んだりする声を聞かなかったという。甚兵衛は奥の座敷に寝ていたし、ことに睡っていたとすれば寝入りばなだから、家の外から彼の耳に達するには、よほどの声か音かを立てねばならない。それが近所の耳に入らなかったというのは、電話のベルが彼を起したと推測される。電話機は、甚兵衛が寝ていた六畳の間の隅に台に乗せて置いてある。  犯人はまず、この電話で甚兵衛と話し、これから訪ねることを承諾させたのであろう。だから甚兵衛は表戸の心張棒をはずして待っていたのだ。これは相当に相識の間柄である。  犯人像を推定させる手がかりは、手提金庫の紛失である。この中には甚兵衛が高利で貸した借用証書もあるし、利払いでふくれた書替証書や約束手形などが入っている。犯人は手提金庫の内容を知った人間であり、その置かれている場所が六畳の間だと知っている人間である。すなわち、その手提金庫の中に入っている借用証書なり約束手形なりを強奪するのが目的だったようである。現金十五万円余は仏壇の下から捜索のときに出てきたし、この現金のありかを犯人が探し回ったという形跡はなかった。  こうなると犯人の見当は絞られてくる。果して警察は、早くも事件発生二日後に植木寅夫を逮捕した。それは聞込みに回っていた捜査員が、その夜九時五分ごろ、山岸甚兵衛の家のある方へ道を急いで歩いている男の姿を、中村という家の主人が便所の窓から用を足しながら見ていた、その男の影が駅前の中華ソバ屋によく似ていた、という話を耳にしたからだった。  植木寅夫は私鉄沿線のR駅前で中華ソバ屋をしている。彼は三年前にここに店を開いたのだが、一年目には隣接の土地を少し買って店舗の改造を行なった。商売が順調だったのではなく、同業が近くに開店したので、その競争意識からだった。店をひろげ、きれいにすれば客足がつくものと期待したのだが、これが裏目に出て、かえって客が減った。もとの狭い店のほうがまだ客が入ったくらいだった。この新規の土地の購入と店舗の拡張に彼は山岸甚兵衛から高利の金を借りたのである。  商売の見込み違いと、高利に追われて植木寅夫は蒼くなった。それでも、もう少したつと住宅がふえるし、駅の乗降客も多くなる。何といっても駅前だから場所がいい。それを望みに彼は頑張ったが、高利の借金の圧迫がそれを上回った。気長に将来を愉しむ余裕などはなかった。彼は都内の古書店に十八のときから二十五までつとめ、畑違いの商売に手を出したのだった。  山岸甚兵衛と腐れ縁が出来た植木寅夫の二年間は苦痛の連続だった。甚兵衛の取立は苛酷で、少しも容赦するところがない。借用証書の書替も何度したか分らず、利子は元金の四倍にもなり、今では七百五十万円の借金となっている。山岸甚兵衛はこれ以上になっても返済能力がないから担保に入っている植木名義の土地全部と店舗とを自分の所有にして相殺《そうさい》するといい出した。その掛け合いが揉めていた。植木は山岸甚兵衛を恨み、あの爺いを叩き殺してやる、と人によくいっていた。      2  山岸甚兵衛に対し、植木寅夫程度に憎悪している者は多い。その限りでは犯行の動機を持っている人間は多数といえる。だが、それらが容疑者として対象になるまでには、次の条件が必要だった。  当夜九時から十時の間ごろのアリバイが成立しない者。被害者と面識のある者。被害者の二階を借りている小学教師の帰省を知っている者。被害者宅の中の様子にかなり詳しい者。被害者の後頭部に加えられた攻撃からみて、かなり膂力《りよりよく》のある者などである。  現場からは、犯人を決定する指紋は発見できなかった。甚兵衛以外の指紋はいっぱい出てくるが、いずれも不明瞭なものばかりである。はっきりしているのは二階に間借りの小学教師夫婦の指紋だが、夫婦には九州の郷里にいたという確実なアリバイがあった。甚兵衛のもとには金融のことで訪ねる者が多いので不明瞭な指紋はそれらと考えられるが、いずれも古かった。  犯人は凶器も遺留品も残していない。それらしい靴跡もなかった。土間がコンクリートなので残りにくい。凶器としては、表戸を支える心張棒が考えられたが、これは太さが細いので、骨が扁平に陥没している傷口と合致しない。この心張棒からも甚兵衛の指紋だけしか出なかった。  甚兵衛の傷口から外出血がなかった。髪はほとんど無いくらいに禿げている。だから凶器に血痕や毛髪が付着しているとは考えられなかった。  裏の軒下には薪に使う松の割木が積んである。この区域はまだガスがひかれないので、どの家庭もプロパンガスを使っているが、農業をしていたころのくせで、甚兵衛はカマドに薪を燃していた。薪は、ほぼ三角形で、一辺の幅が四センチくらいある。この割木だと数回殴打すれば、頭部は扁平に陥没するだろう。  捜査員は、そこに積んである三十本ばかりの割木の、上のほう十本ばかりを調べてみたが、荒く割った木肌からは指紋の採取は困難だった。また、血痕も付いてなく、毛髪も絡《から》んでいなかった。  以上の死体状況や現場の状況を一応頭に入れて、逮捕された植木寅夫の自供の概要を見る。 ≪私は二年前、山岸甚兵衛に高利の金を借りて以来彼から苦しめられ通しで、最近は担保にとられた土地と家とを競売に出すといい出した。この土地と家とは最初私が貯めてきた金を資金に購入して中華ソバ屋を開業したもので、途中、甚兵衛から金を借りて店を拡張したが営業は思うようにゆかず、甚兵衛からは右のような次第で苦しめられ、自暴自棄になっていた。この上は妻と幼児とで一家心中のほかはないと思ったが、死ぬ前に憎い甚兵衛を殺してやろうと考えた。それが同じような苦痛を味わっている他の人たちのためにもなる人助けだと思った。  十月十八日の午後七時ごろから、私は友人の中田、前田、西川と駅から二百メートルはなれている『万牌《まんぱい》荘』というマージャン屋でマージャンをやった。この頃は店が閑なので、あとは妻にまかせ、夕方からマージャンなどをやることが多かった。右の三名と半|荘《チヤン》が二回終るころに、『万牌荘』によく来ている柴田という男が立って私たちのゲームを見物し、やりたそうな顔をしているので、『ぼくは家にちょっと用があって帰ってくるが、その間あんたが代りに入ってくれないか』というと柴田はよろこんで承知した。『万牌荘』を出たのが九時ごろであった。  私は家には戻らず、駅前の公衆電話のボックスに入って甚兵衛の家に電話した。しばらくして甚兵衛の声が出たので『担保の処分のことだが、実は二百万円ほど金が出来たのでこれから持って行くので、当分延期してもらいたい、今後のことも話合いたいので、会ってくれ』というと、甚兵衛は、はじめ『いま蒲団に入ったところだから明日にしてくれ』といったが、彼も札束の顔が早く見たいのか『ではすぐ来てくれ、待っている』といった。  駅前から甚兵衛の家までは一キロくらいある。家なみが切れると途中は田圃や畑で、灌漑用の池も二つあるといった寂しい道なのでだれとも出会わなかった。甚兵衛の家は十二、三軒ばかりがかたまった部落にある。だが、駅前の通りをはずれた家で、便所の窓から自分の姿が見られていたのは気がつかなかった。中村さんというのは店にソバを食べにくる人である。  電話で打合せた通り、甚兵衛は表戸を開けて私を待っていた。二階に住む小学校の先生夫婦が三、四日前から九州のほうに帰っているのを私は知っていた。その先生は店によく来て中華ソバを食べるので帰省の話を聞いていた。  私はまず甚兵衛の家の裏口に回り、軒下に積んである薪の割木の山から手ごろなのを一本握り、そこから二階を見上げたが、雨戸が閉っていてその隙間から灯も洩れず、先生夫婦が九州に帰っているのは確実だと思った。  表に戻って、開いている入口から土間に入り、『今晩は』と声をかけると、甚兵衛が奥から出てきた。私はそのとき右の手に握ったままの薪の割木を腰のうしろに隠していた。甚兵衛は私のくるのを期待していたので、とっつきの八畳の間には電灯をつけていた。  甚兵衛はそこから私の顔をのぞき、『えらい遅いな』といったが、私が金を持ってきたと思い込んでいるのか機嫌は悪くなく、にっこり笑って『まあ、上りなさい』といった。私はなおも土間に立ったままで『せっかく寝んでいるところを起して済みませんなあ。二百万円ほど都合できたので持ってきた。家に置いておくと泥棒の心配もあるから』と時間かせぎに話していると、甚兵衛は『とにかく上ってくれ』といい、部屋の隅から座蒲団を二枚出した。私は右手に割木を持っているので困ったが、とにかくうしろに隠したまま上にあがって、座蒲団に坐ったとき、素早く背中に置いた。私はこの割木を見られては困るので、早く話を切り出すに限ると思い、『金を持ってきたから受取りを書いてくれ』と、かねて用意の新聞紙に包んだ札束の格好のものをポケットからのぞかせると、甚兵衛は『それなら受取り証の用紙を取ってくる』といって立ち、隣の六畳に行きかけた。私はここだと思い、割木をつかむと彼の背中に立ち上って禿げた後頭部目がけて強く打ち下ろした。甚兵衛は『ぎゃァ』とすごい声を出して前に倒れたので、私はなおも薪で三回後頭部を強く殴りつけた。甚兵衛は匍ったまま動かなくなった。私は、来客ではなく、強盗の仕わざにしたかったので、出された二枚の座蒲団は壁ぎわのもとの位置に戻しておいた。  私は次の六畳の間に行き、手提金庫を探した。それは襖を開けた押入の中にあった。私は自分を苦しめた借用証書がこの中に入っていると思うとそれを破り捨てたくなり、金庫を開けようと思ったが、文字盤合せを知らないので、そのまま持って逃げることにした。私は家の外に出ると、裏口に回り、割木をもとの場所の薪を積んだ上に置いた。どの辺の位置に置いたかは、暗くてよく分らなかった。これまでの行動に三十分くらいかかったと思う。  私は手提金庫を抱え、途中の道ばたにある草むらに入って中を開けようとしたが、文字盤合せで開かないので、その辺にころがっていた大きな石を文字盤に叩きつけると、そこが壊れて蓋が開いた。私は中に入っている借用証書をさがし『植木寅夫』という文字が、うすい月明りに見えたので、それをとり除き、ついでにほかの人助けだと思って五、六枚をつかみポケットに入れ、あと手提金庫は壊れたまま蓋を閉じ、向って右の溜池に投げこんだ。ポケットの借用証書は、そこから百メートルほどある生命保険会社のグラウンドのうしろに行ってマッチで火をつけ燃やし、その灰は靴で蹴散らかした。  あとでその溜池から手提金庫が泥水にまみれて発見され、警察官から、濡れた借用証書の中に私の証書があるのを聞いた時はおどろいた。警察官の話では、甚兵衛の帳簿に猪木重夫という人の貸金があり、発見された手提金庫の中にはそれがないので、私がうす暗がりの中で『猪木重夫』と『植木寅夫』とを間違えたのだろうということだった。その時は私も昂奮していたし、あるいはそうかもしれない。  一切の始末をつけて『万牌荘』に戻ると、友人ら四人のマージャンはまだ済んでなく、私が十分間ばかり見ていると、中田のひとり勝ちに終った。それで柴田が退いて、私が入って一チャンやったが、だれも私が人殺しをしてきたなどとは知らず、自分も我ながら落ちついていると思った。甚兵衛を殺してもそれほど罪悪感をおぼえなかったせいだろう。  その晩もよく睡れた。借用証書は燃してしまったし、甚兵衛にはあとつぎがいないので、負債が自然消滅するかと思うと、かえってうれしくなり、気分が晴れやかになった。  あくる日、高利貸の山岸甚兵衛が殺されたというので、界隈ではたいへんな騒ぎになった。しかし、だれも甚兵衛に同情する者はなく、いい気味だとか、因果の報いだとか蔭口をしているのを聞いて安心した。  二日後の昼間、私が店でテレビを見ていると、刑事が二人来て、ちょっと参考に訊きたいことがあるので捜査本部に来てくれといわれた。私は、平気な顔で承知したが、心の中では、もう、これは駄目かもしれないと覚悟した。だが、山岸甚兵衛を殺したのは悪いことかもしれないが、甚兵衛にもそれだけの悪業はあるのだと思うと、警察で追及を受けたら、隠さずに何もかも話そうと思った。しかし、なるべくなら自分の犯行でないようにしたかった≫  ──この経過を見ても、まことに単純な犯罪であった。その限りでは、私選と国選とを問わず、およそ弁護人には何の意欲も起させない退屈な事件であった。せいぜいが情状酌量による減刑論だと原島は思った。  ところが、被告の供述書を原島が読みすすんでゆくと、この被告は検事取調べの途中から、警察での自白と、検事に対するはじめの部分の供述を翻し、自分は全く山岸甚兵衛殺しには関係なく、自白は警察の利益誘導訊問と精神的拷問の結果であるといい出しているのは、ちょっと意外だった。  しかし、これもよくあることで、とくに殺人事件のような重刑を課せられる被告は、助かりたい一心からよくこうした手を用いる。  原島が警察での自供を読んだ心証では、植木寅夫はたしかに黒である。その自供には無理がなく、また被疑者が進んで行なっている様子すらある。また、警察で作成した実地検証の結果と自供とはよく合う。被告がいうように警察の強制によって行なわれた自白とは考えられない。  だが、植木寅夫は検事の前で新しい供述を次のようにいっていた。      3 ≪私が十月十八日午後七時ごろから『万牌荘』で中田、前田、西川と四人でマージャンをやり、半荘が二回終った九時ごろに柴田と交替したのは前供述の通りである。私が駅前の公衆電話から山岸甚兵衛に電話して、これから担保処分の件で行くと甚兵衛にいい、甚兵衛が起きて待っていると答えたので、公衆電話ボックスを出て甚兵衛宅に向ったのも本当である。しかし、それから先が警察でいった自白とは違う。  私は、電話で甚兵衛に二百万円都合できたからこれから持って行くとはいわなかった。私に二百万円都合できるはずはないが、警察では『お前が金を持たずに行くと電話でいっても、いったん寝てしまった山岸が起きるはずはない、来るなら明日にしてくれ、というにきまっている。お前は二百万円持ってゆくとだまして山岸に表戸を開けさせておいたのだろう、二百万円はそれらしく見せかけたのをポケットに入れて山岸に会いに行ったのだろう』としつこくいうので、なるほど甚兵衛の性格からして金無しには起きて待ってはいないと思われるのが第三者の考えだろうと思い直し、警察官のいう通りに『はい、そうです』と答えたのである。  私は公衆電話で甚兵衛に『担保の処分は待ってくれ。土地と店舗とを取られたら一家の生活ができないから、そこを察してもらいたい。ついては一つの解決策があるので、これからその相談に乗ってくれないか』といったのだ。すると甚兵衛は『こちらも担保を処分するのが本意ではない。お前に返金の見込みがないと思われるので、やむなくそうしたのだ。いい解決策があったらこれから聞いてやってもよい。表戸を開けておくから来い』といった。  私は、甚兵衛の家の近くまで行ったが、もとより名案があるわけではなく、土地や店舗と住宅を取られるのが心配のあまりに一寸延ばしを策したにすぎない。電話で予告したのに会ってから何の具体策も無いでは甚兵衛をよけいに憤激させることになるので、彼の家に入りかねて、そのへんをうろうろと三十分ばかり歩き回り、とうとう引返すことにした。  引返してもマージャンはまだ終るころでもなかったし、私のそのときの心境からすると他人の勝負を見物する気にもなれないので、なおも生命保険会社のグラウンドのあたりを思案しながら歩きまわっていた。田舎道の夜のことで、だれとも出会わなかった。  そうして前後一時間ばかり費して『万牌荘』に戻ると、四人の勝負は、半荘マージャンなので、終りかけていた。柴田が退いて私が入ったが、そんなわけで別に殺人をしてきたわけでもないので、ほかの四人が私の態度が落ちついていたと証言しているのは当然である。また、私の妻も、私がその晩よく睡ったといっているが、心にやましいことがないから、疲れたまま熟睡したのである。  以上が真実であるが、自白で述べたウソの犯行の模様についていう。  私は警察で最初は自分の犯行でないといったが、刑事は入れ代り立ち代り取調室に入ってきて私に向って『真実をいえ、いくらお前が嘘をいっても証拠はちゃんと上っているのだ、二つある溜池の一つからお前が盗んできた甚兵衛の手提金庫も発見された、その文字盤はこわされていて、蓋をあけると水浸しになった借用証書が二十二枚出てきたが、その中にはお前の七百五十万円の借用証書もあった。ところが甚兵衛の記《つ》けた台帳と照合してみると五枚ほど足りない。その中に�猪木重夫�というのがあったはずだ。これが盗まれてお前のが手提金庫の中に残っているというのは、お前が金庫を開けて証書を取り出したとき、薄暗がりなので�植木寅夫�と�猪木重夫�とをとり違えたのだ。両方の文字はよく似ているからな』というのである。  さらに刑事は『お前はあの近くにいる中村是也という人を知っているか』ときくので『その人は店の客で、中華ソバをよく食べに来る』と答えると、『それでは、先方もお前の顔を知っているわけだな?』と問う。『よく知っているはずだ』と私がいうと、刑事は勝ち誇った顔で、『その中村是也はその夜九時五分ごろ、自宅の便所の窓からお前が山岸甚兵衛の家のほうに急いで行くのを見ているのだ、お前は気がつかなかったろうがね。お前のそうした姿をはっきり目撃した中村の証言があるから、もう駄目だ、いい逃れはよすがよい。手提金庫の物証もあるし、動かぬ証言もある。お前が甚兵衛を殺す動機は警察でも独自に調べていて、尤もだと考えて同情している。男らしく白状せよ。そうしたら、ぼくらで検事さんにたのんですぐ釈放してもらい、不起訴処分になるようにしてもらう。お前も早くこんなところは出て、女房子のもとに帰り、商売に身を入れたいだろう』といろいろ親切そうにいい出した。  私は、甚兵衛の家に向うときの目撃者も出たことだし、これはいくら弁解しても警察では聞入れてくれないし、とにかく気に入るようにウソの自白をすれば不起訴処分にすると約束しているので、そうしたほうがよいと思い、『実は、ぼくが殺《や》りました』といってしまった。  刑事たちは大よろこびで、煙草を喫わせるやら、天丼をとってくれるやらのサービスをした。あとは、刑事のいう通りに従って犯行の筋書を供述し、甚兵衛宅の中の見取図も、刑事の暗示に導かれて書いた。  まず凶器だが、何にしてよいか私には分らないので困っていると、刑事は『ほら、煮炊き用の燃料にするものがあったなア』というので、私が『石炭で甚兵衛を殴りました』というと、刑事は『バカ、そんなもので人が殴り殺せるか。長いものだよ。山から取ってくるものだ。これくらいの長さだ』といって両手で長さを示すので、ああ、松の木を切った割木のことだなと思いついて『薪ですか』というと、『そうだ、お前は割木の薪で山岸の禿げ茶瓶の頭を殴ったのだ。その薪はどこに置いてあったか』と刑事はまた聞く。  私は、その在所《ありか》がよく分らないので『台所の隅です』というと刑事は怒って『そんなところに置いてはいない。もっと雨のかかる場所だ。雨の滴がポツン、ポツンと落ちるところだ』と、ポツン、ポツンというのを唄うように調子をつけるから『裏の軒下です』というと、刑事は『御名答』といって笑った。  ところが聴取書や供述書にはそんなことは記録してなく、『かねて山岸甚兵衛宅の裏側軒下に薪用の松の割木が積み上げてあるのを知っていたので、私はまず裏口に行って手ごろな割木を右手に握り、表口に回ると、戸が開いていたので�今晩は�といって入った』というように書かれている。|感じ《ヽヽ》がまったく違う。しかし、結局、大体の意味はあまり違わないので、自供書の終りにある『右を速記し、読み聞かせたところ、相違なき旨を申立てて署名拇印した』というふうになってしまったのである。  凶器として使った『手ごろな薪』もそうで、刑事は私を甚兵衛宅の裏側軒下に連れて行き、薪の山積を見せながら、『どの薪を使ったか』と訊くから、私は実際に犯行をしたわけではないので困っていると、刑事は『これではないか、よく思い出してみよ』といって上から二段目ぐらいのところの薪を一本抜いて私に見せる。その大きさからいって刑事は前からその薪に目をつけていたらしいので、『これだったと思います』というと、それが『凶器』ということになってしまった。それには血痕も頭の毛もついてないので、私がそれをいうと、刑事は『被害者の傷からは血が出てないのだ。禿げ茶瓶だから毛も無い。それでよかったのだ。もし、外出血があったら、この薪に同じ血液型の血をどこからか持ってきて塗らねばならんところだった』と、すっかり私を舐《な》めてうそぶいた。『しかし、この薪にはぼくの指紋がついていませんね』というと、刑事は『薪のような荒い木肌には、指紋はつきにくいものだ』といって、その薪を風呂敷に包み、『証拠品』にした。  それから、刑事は『山岸とどんな位置で坐っていて、殴り殺したか』ときくから、仕方がないので『割木を右手にかくし、こっちの間に出てきた甚兵衛に二百万円を払いにきたというと、甚兵衛は、まあ上れ、といってうしろむきになったので、靴を脱ぎ終っていた私は甚兵衛のあとを追い、いきなり割木で彼の後頭部を殴った』と述べた。  刑事は『そんなことはあるまい。いやしくも客を迎えたのだから甚兵衛は座蒲団を出してお前を坐らせ、お前が二百万円払うといったので、受取りの用紙を取りに次の間に立つうしろから薪で殴りつけたにちがいない。客が来たのに座蒲団を出さぬはずはない。現場には座蒲団は出ていなかったが、それは凶行後にお前が来客のしわざでないと見せかけるために座蒲団をもとの壁のところに戻したのだろう』という。私は面倒臭くなったので『その通りです』といった。刑事はその通り、では困る。いまいったようなことを自分の口から順序立てていってくれ』とたのむので、私はトチリながらもそのいわれた通りのことを述べた。  次に、刑事は『何回殴ったか』と訊くので私は『一回です』というと、『一回ということはなかろう、一回で人が殴り殺せるものではない。何回だったか』と訊く。それで、私は『よくおぼえてないが、六、七回くらいでした』というと、刑事は渋い顔をし『六、七回は多すぎる。そんなに殴ったら血がふき出るはずだ。まあ、三回くらいだろうな、お前がよく覚えてないだけだ、三回にしておこう。三回殴ったんだよ』と子供にいい聞かせるように念を押していった。『割木で三回くらい頭を殴ると、解剖報告書のような傷が出来る』と刑事はひとりごとのように呟いていた。  最後に、手提金庫だが、六畳の押入から奪ったことも、その金庫を途中で石で叩きこわし、中から借用証書をとり出したことも刑事にいわれた通りにいった。『植木寅夫』と『猪木重夫』の間違いも刑事に教えられた。  手提金庫を投げこんだ溜池も、私ははじめ駅方面に向って左側の池だというと『そうではあるまい、よく思い出してみよ』と刑事がいうので、溜池は二つしかないので、『では右側の池でした』といい直した。  その手提金庫に真犯人の指紋でも付いていれば、私は助かるのであるが、捜査員によって溜池から発見されたときは泥水につかっていたので、指紋の採取が出来なかったのは残念である。ところが刑事の誘導する自白によると、これも私が計画的に泥水に漬けることを考えていた、ということになった。  生命保険会社のグラウンド裏の草むらの中で見つかったという紙の灰屑については、もとより知るはずもない。警察が他の似たような紙質の紙を焼いて『証拠品』を作ったのではないだろうか。灰は屑になっているので、灰からは印刷文字も書き文字も読みとることはできない。  とにかく私は警察が『自白すればすぐに家に帰してやる。不起訴処分になるよう検事さんに頼んでやる。ぼくたちは君の動機に同情しているので、できるだけ応援するつもりだ』という言葉にひっかかった。私が家に早く帰してもらいたい一心の故に、この警察の罠にかかったのである。  そのため私はわりと早く警察の留置場を出され、拘置所に送られたが、刑事たちは『検事さんの前でも、ぼくらにいった通りのことをいうんだよ。もし、違ったことをいうのだったら、不起訴はおろか、お前をもう一度警察に戻してやり直し、うんとしごいてやるからな』と怕《こわ》い顔をし、また『法廷でお前がこの自供を翻《ひるがえ》せば、おれたちはお前が極刑になるように全力をあげて闘うからおぼえていろ。おれたちはそういうことには執念深いのだ』などと脅迫した。  私はそれが恐ろしさに検事の調べでは初め警察でいった偽自白の通りを供述したが、家に早く帰されることも、検事が不起訴処分にしてくれるのも、みんなペテンと判ったので、ここで真実の自供をする決心になったのである≫      4  原島は、植木寅夫のこの新しい供述を読み、警察官に自白を強要されたという過程で、多少オーバーな表現はあるけれど、あるいはこういうこともあったろうかと思われてきた。最初の自白を読んだとき、それが自然で、無理がないという印象をうけたけれど、新供述を読むと、これはこれでまた無理がないのである。警察には、たしかにまだそういう悪風が残っている。真実がどっちだかまだ見きわめがつかないが、弁護人の心理としては新供述によりかかりたくなる。  しかし検事の起訴状では、この新供述を認めず、警察での自白を真実の証拠として採用している。  憲法(第三八条)では、強制、拷問、脅迫による自白、不当に長く抑留、拘禁されたのちの自白を証拠とすることができないとされている。詐術による訊問(たとえば共犯が自供しないのに自供したと称して自白を迫るなど)とか利益誘導による自白は任意性がなく、これを唯一の証拠として犯罪事実を認定することはゆるされない。  ところが、被告が無罪を主張する理由の多くに、警察における非任意性の自白がある。そこで、自白の裏付となる補強証拠が犯罪認定上の重要な要素となるのだが、これには物的証拠や第三者の証言などがある。また、その性格を分類して、直接証拠と間接証拠とがあるが、間接証拠は情況証拠ともいう。  植木寅夫の犯罪の場合は、彼が山岸甚兵衛に高利の金を借りてその返済に苦しんでいたのみならず、担保として入れた土地、建物を取られそうになったのは事実であるから、殺意を抱いていたとみられる情況証拠になる。それに犯行時間には植木寅夫のアリバイがない。彼は九時ごろに「万牌荘」を出て十時前に戻ったことは、マージャンをやっていた中田、前田、西川、柴田、それに「万牌荘」の経営者や従業員の証言がある。これも情況証拠または間接証拠である。  植木が「万牌荘」を出て間もない時刻に、彼の姿を自宅の便所の窓から見ていたという中村是也の証言がある。しかし、中村は植木が山岸甚兵衛の家に入って甚兵衛を殺害する現場を目撃したのではなく、甚兵衛の家のある方角へ向う植木の姿を見たというだけだから、その証言は直接証拠ではなく間接証拠である。  物的証拠といえば薪と、溜池から出てきた手提金庫である。この手提金庫は、甚兵衛の家を検証した際に紛失していることが分ったので、捜査員が附近の溜池を浚《さら》って発見したものだ。だが薪からも、手提金庫からも植木の指紋は検出されなかった。金庫から指紋が取れなかった理由は前にふれたが、薪のところは、警察の捜査記録によると、 「問 山岸甚兵衛ノ後頭部ハドウイウ物ヲ用イテ殴打シタカ。  答 松ノ木ヲ割ッタ薪デス。『カマド』下ニ入レテ焚キモノニスル割木デス。  問 其ノ長サハドレクライカ。  答 約三十センチ位ダト思イマス。  問 ソレハ何処ニアッタカ。  答 山岸宅ノ裏口ノ軒下ニ積ンデアリマシタ。私ハ山岸ヲ殺ストキニハ、ソレデヤロウト前カラ思ッテ居リマシタ。  問 ソレデハ以前カラ其ノ場所ニ割木ノ薪ガ積ンデアルノヲ知ッテ居タンダネ。  答 ソウデス。  問 凶行ニ用イタアト、其ノ薪ハドウシタカ。  答 元ノ場所ニ戻シテ置キマシタ。  問 ソレデハ、ソノ裏口ノ軒下ノ薪ガ積上ゲテアルトコロニ行ケバ、凶器ニ用イタ薪ガドレカ分ルカ。  答 若《モ》シ他人ガソレヲ燃シタリ、他ノ場所ニ移動シテ無カッタラ分ルト思イマス。  問 翌朝死体発見ノ通知ト同時ニ警察デ現場保存ヲシタカラ、ソノ儘ニ残ッテ居ルヨ。  答 ソレデハ現場ニ行ケバ分ルト思イマス。」  となっていて、植木の再供述のように、取調官の連想ゲーム式なヒント問答はまったく無い。  被疑者を連行した現場検証でも、 「被疑者ハ、山岸甚兵衛方ノ東側裏口ニ行キ、軒下ニ積上ゲテアル薪用ノ松ノ割木三十五本ノ束ヲ見ルトスグニ、上ヨリ二段目ノ薪一本ヲ見テ、 『コレデス、コレヲ使イマシタ』  ト直チニ指摘シタ。  捜査員ガ手袋ヲ着ケテ被疑者ノ指摘シタ薪ヲ取出シテ、同ジク手袋ヲ着ケサセタ被疑者ノ右手ニ渡シタトコロ、被疑者ハソノ薪ヲ二、三度試スヨウニ握り替エ、更ニ五、六度打チ降ロスヨウニ振ッテ見セ、 『コレデス、コノ薪ニ相違アリマセン。刑事サン、一度自分デ使ッタモノハ、手デ握ッタ感ジデ判ルモノデスネ』  ト云イ、又、ソノ薪ノ片面ニ付イタ松ノ皮ニアル節《ふし》ヲ示シ、 『コノ節ノ格好ニモ見覚エガアリマス。私ガ手ニシタトキニ見マシタ』  ト述べ、更ニ、 『刑事サン、コノ薪ニハ私ノ指紋ガ確カニ付イテイル筈デスガ、検ベテ下サイ。アノ時、カナリ長イ時間、強ク握ッテイタノデ、必ズ右手ノ指紋ガ残ッテイル筈デス』  ト申立テル等、ソノ態度ハ非常ニ協力的デアッタ。」  となっていて、植木寅夫は捜査側に積極的な協力ぶりである。その様子は警察に阿諛《あゆ》しているようにさえみえる。  原島は忙しいなかを警察署に行き、捜査課の係長に会って、まだ読んでない初動捜査の記録など見せてもらったが、その捜査は、中村是也が便所の窓から植木の姿を目撃したという聞込みを得て以来、植木寅夫一人に絞られている。その植木も逮捕されるとすぐに自白をしているので、警察でも気楽に早いとこ送検していた。 「先生、被告は自供を翻しているそうですが、どういう心理か分りませんねえ」  係長は原島が植木の国選弁護人なので遠慮したいい方をしたが、明らかに被告に腹を立てていた。 「警察では決して無理な取調べ方はしていません。もちろん、自白したら早く家に帰してやるとか、検事さんに頼んで不起訴処分にしてもらってやるとか、あるいは自供を翻したら裁判で極刑になるように警察が闘うとか、そんなバカなことは絶対にいいません。植木をこっちにつかまえてくると、簡単に落ちて殺しをベラベラとしゃべり、山岸の家に入って山岸と話した模様も、殺しの様子も、自分でさっさと見取図を書きながら説明したんですからね。凶器に使用した薪用の割木のことだって、検証調書に記載している通り、本人がこれです、これですと取り出して、握り具合をたしかめ、五、六度も振って、これに間違いありません、節目にも見覚えがあるとか、指紋が付いているはずだから調べてくれとか、こっちが訊きもしないことを愛想よくしゃべるんですよ。本ボシでないと、あんなに現場の模様と合致したことがいえるはずはありません」  係長は「愛想よく」といった。被疑者の中には、警察での待遇をよくしてもらい、早く拘置所に送られたいために取調べの捜査員に迎合し、そしてあとで自供を変え、自白は警察官の強制によるものだったと述べるのを計画的に考えているものもいる。植木寅夫もそうだったのだろうか。  それとも植木に迎合の態度があったとすれば──たしかにその様子は見える──彼の再供述のように、早く家に帰してやるとか、不起訴処分にしてやるとかという警察官の利益誘導の言葉を信じて、なるべく警察の心証をよくするために、「愛想よく」振舞ったのだろうか。  公判期日が迫っているので、原島は抱えこんでいる他の弁護事件の間をくぐって拘置所に行き、植木寅夫に面会した。  植木寅夫は、細い身体の、背の高い男で、女のようにやさしい、白い顔をしていた。眉と眼尻が下り、うすい唇をし、せまい額を持っていた。彼は国選弁護人を迎え、自分のために無料で働いてくれる(「被告人が貧困で負担能力のないとき」=刑訴法第一八一条第一項、第五〇〇条)原島に向って尊敬と感謝の言葉をていねいに述べた。  原島は、こういう優さ男にはとうてい殺人のような凶悪犯罪は行なえないような気もするし、その女のような顔の下に残忍性と狡猾さとが隠されているようにも思えた。まだ原島には、被告人の顔を何百人見ても、正直か不正直かは判らなかった。 「君の弁護を引きうけた以上、君はぼくに何もかも公正にいってもらわないと困ります。でないと、ぼくは正しい弁論ができないからね」  面会所で原島は念を押した。 「君のあとからいい直した供述、つまり警察官の前で述べた自白はすべて真実でなかったという供述は、間違いありませんね?」 「間違いありません。あれは警察に欺されたのです」  直立した植木寅夫は力強く答えた。 「誘導訊問をうけた経緯は再供述の通りですか?」 「はい。あの通りであります」 「警察官は、君が何もかも協力的に述べ、証拠品となっている薪用の割木なども君が積極的に捜査員に示したということだが」 「それは違います。再供述の通り、取調べの際に刑事さんに教えられてそういったのです」 「法廷でもそういえますね?」 「もちろんいえます」 「それでは、それに従って弁護の方法を考えましょう」 「先生」と植木寅夫は改まったようにいった。 「ぼくが警察に強制されて自白した証拠を申上げましょう」 「証拠?」 「はい」      5  植木寅夫は微笑を顔に湛《たた》えていった。 「ぼくは昨夜寝ているときに思い出したのです。だから、このことはまだ検事さんにもいっていません。きっと、ぼくに先生が弁護人として付いてくださることになったので、神さまが思い出させてくださったのだと思います」 「どういうことか、いってみたまえ」 「甚兵衛さんをぼくが薪で殴り殺したというところです。ぼくは甚兵衛さんが八畳の間で隣室にむかってうつ伏せになって死んでいたと聞き、甚兵衛さんがぼくの顔を見て二言三言いって、まあ上れ、というようにうしろむきになったところを殴打したと自分の犯行を想像で述べましたが、刑事は、そんなことがあるものか、お前は山岸の出した座蒲団に坐ったのだろう、犯行のあと、それをごまかすために座蒲団を片づけて強盗の侵入に見せかけたのだろう、としつこくいうので、その通りです、と従いました。しかし、山岸甚兵衛さんは、金を借りに行ったものには決して座蒲団を出さぬ男です。ぼくは何度もそれを経験していますから、ほかの人にもそうだったのでしょう。他の人について訊いてみてください」 「では、部屋の隅に積んである座蒲団はどういう客のために出していたのですか?」 「あれはただの見せかけです。座蒲団を出すと客が長っ尻になるので、甚兵衛さんは借金のことでくる人間には座蒲団を出しません。なるべく時間を短くして、自分の条件を押しつけてしまうのです。長話になると、どうしても人情が移りますからね。だから、そういう金銭の用事でない客には座蒲団を出していたでしょう。刑事はそういう甚兵衛さんのやり方を知らないのです」 「それから、ほかに?」 「手提金庫のことです。ぼくはあれがどこから出たのか知りませんが、刑事が、水の中だというから、溜池のことと思って向って左側の溜池だというと、バカ、反対だ、というから右側にしたのです。そのことは検事にあとの供述でいいましたが、その手提金庫の中にぼくの借用証書が残っていたのが何よりぼくの犯行でないことを証明するではありませんか。警察では、ぼくが『猪木重夫』と『植木寅夫』と字が似ているので、暗がりで間違えたといっていますが、殺人までして証書を取返す人間が、どうしてその名前を確めずに置くものですか。刑事は、暗がりだといっていますが、そのあと五枚の証書をグランド裏で燃しているから、ぼくはマッチを持っていたことになりますね、そのマッチを擦って証書の文字を確めなかったという考えこそ、不自然ではありませんか。しかもその手提金庫にはぼくの指紋はないのですよ」 「ほかに?」 「まだ、重要なことがあります。先生、犯行に使ったという薪用の割木のことですがね。その大きさと、甚兵衛さんの後頭部の傷とが一致するかどうかです」 「というと?」 「ぼくは鑑定書の写しを読みましたが、後頭部の骨が手掌大に扁平化とあります。これは後の頭骨が掌くらいの大きさに平均してへこんでいるということですね。ぼくが刑事の指示のままに割木の山から択《えら》んだ薪は、ほぼ三角形で、一辺の幅が四センチくらいだったと思います。これで三度甚兵衛さんの後頭部を殴打したことになっている。そんなことでは、手掌大骨扁平化になるとは思えません。四センチの幅で三回殴れば、その幅の傷がデコボコに出来ると思います。あれは、もっと大きな物で、いっぺんに殴打したのではないでしょうか。これは、ぼくの素人考えかもしれませんが、研究していただけませんか」  植木寅夫はおとなしい声でいった。  原島は、拘置所から帰るタクシーの中で、植木の言葉をくり返し考えた。考えているうちにこれは相当に重要な意味があると気づき、昂奮をおぼえてきた。  彼は事務所に帰ると、訴訟記録を改めて読み直した。そうすると、これまでの眼とは異った眼になっている自分を思った。視点を違えると、こうも印象が変るものかと思われるくらいだった。  たしかに警察は、最初から犯人を植木寅夫に決めてかかっていた。他の者についての捜査をほとんどやっていない。その植木が逮捕されるとすぐに犯行を自白したので、警察はすっかり安心したのか、証拠固めをおろそかにしている。警察では喜びのあまり、初動捜査に手抜かりがあったのである。  原島は、山岸甚兵衛から金を借りている人たち十数人について聞いて回った。だれも甚兵衛から座蒲団をすすめられた者はなかった。甚兵衛の二階を借りている小学教師夫婦から聞くと、甚兵衛はビジネスでなく訪れる客には座蒲団をすすめて款待《かんたい》していたという。そういう客には、甚兵衛ものんびりと話し、なかなか愉しそうだったと夫婦は話した。そこで、原島はそういう人間にも当って回った。植木のいった通りであった。  そうすると、これは植木の主張通り、刑事が常識から、金を借りたり返したりする客には座蒲団を出すものという考えと、強盗に見せかけるために座蒲団を片づけたという考えとをいっしょに結びつけて判断し、被疑者にその通りの自供を求めたのかもしれない。  原島は、解剖した医者の鑑定書を持って、知り合いの法医学者の意見を聞きに行った。その法医学者は、鑑定所の記載の限りでも、手掌大骨扁平化は、少なくとも幅八センチ以上の凶器によって一回きりの攻撃が加えられたことが推測されるといった。警察がどうしてここのところに気がつかなかったのかふしぎですね、と法医学者は首をかしげていた。  もっとも、警察では、ぼくらの鑑定よりも自分たちのカン、刑事の経験的なカンを尊重しますからね、科学的な鑑定でも、それは飽くまでも参考にすぎない、と公言してますからね、と第一線の刑事たちに学者が軽視されているのに苦笑していた。  思うに、捜査の刑事には甚兵衛宅の裏にある割木が眼についたので、それと他に適当な「凶器」が見当らなかったので、これだこれだというわけで、四センチ幅の薪を安易に択んだのではないか。植木寅夫の自白があった直後のことで、捜査員の気持も浮わついていたと思われる。或る重大事件の捜査では、犯人の遺留品があまりに多過ぎたのに有頂天となり、初動捜査が粗雑になったため、遂に迷宮入りになった例さえある。刑事の自信たっぷりな経験的カンほど誤り多く、偏見の強いものはない。 ≪警察官がこうした偏見から、容疑を晴らす事実を十分|斟酌《しんしやく》もせずに、不当な手段で自白を強要したという事例はすこぶる多い。長い経験を有する裁判官なら、きっと誰でもその一つや二つを知っているだろう。また、犯罪関係の文書中にも、しばしばこのような事実が引用されている。例えばハウスナーの如きも無闇矢鱈にあせるあまり、無罪を証する事実を無視する警察官のあることを訴えている。また、警察における自供に多くの偽りがあるというのは定評だとはロージングの言葉である≫(司法研修所の「事実認定」についての教材)  原島に意欲が生じた。こういう事件にぶつかるのも国選弁護人|冥利《みようり》かもしれない。法廷には、法医学者に「鑑定の鑑定」のため証人として出てもらった。山岸甚兵衛の交際関係の人々を新証人として次々と申請した。  原島は法廷に、植木を取調べた四人の警察官を証人に引き出した。彼らは、いずれも植木の自白は任意によるものだと証言した。  ──あなたは、被疑者に「お前が山岸を殺ったのは警察に分っているからいい逃れしても駄目だ。素直に白状すれば、家に早く帰してやるし、検事に頼んで不起訴処分にしてもらう」といったか。  A証人──そんなことはいっていない。  ──被疑者の自白を促すために取調室で煙草を自由に喫わせ、自白後は天丼を三回にわたってとって与えたか。  B証人──取調室で煙草を一二本与えるのは通常である。自由に喫煙させたわけではない。天丼は一回だけだった。  ──被疑者に対談の際の座蒲団を片づけさせたように指示または暗示したか。  C証人──それは被疑者の自発的な任意による自供である。  ──凶器を薪用の割木と暗示し、被害者宅裏口の軒下に被疑者を連行し、その一本(証第一号)を択ばせ、さらにそれをもって被害者の後頭部を三回殴打したように自白を誘導したか。  D証人──そういうことは絶対にない。すべて被疑者の自白である。薪も被疑者が自ら撰択し「これです、これです」といって握り具合を試すようにして振り回し「これに間違いはありません」と非常に積極的に認めて、それをわれわれに示した。  植木寅夫は、これら四人の証人との対決質問で非常な憤りをもって、 「たしかにあのとき、そういったではないか。警察官ともあろうものが、そんな破廉恥《はれんち》な嘘をついていいのか。無実な人間を罪に陥れ、手柄を立てるためにはどんな虚言を弄してもよいのか。それで良心に恥じるところはないのか」  と高姿勢で迫った。これに対し取調べに当った四人の警官証人は、ただ否定する一方で、たじたじであった。  判決は、法廷が開始されてから三カ月後にあった。証拠不十分により無罪であった。判決理由の主要点は次のようになっている。  ㈰ 自白の対象となっている当裁判所領置にかかわる薪用の松割木を実測すると、その幅は太いところで約四糎にすぎないのに、証人G(解剖医ほか一名)作成の鑑定書、証人Gの証言(第一、二回)によれば、被害者の頭部に存する骨扁平化を生ぜしめうる凶器は、その幅がすくなくとも手掌大すなわち約八糎乃至約九糎あるものでなければならない(鑑定人S=某大学教授=の鑑定も同一主旨)のであるから、右証拠品の松割木は本件犯行に使用されたものとは別個のものである。  ㈪ 右証拠品の薪の松割木ならびに自白による山岸甚兵衛方より窃盗後溜池に投入したという手提金庫からは、被告人の指紋を発見することができない。  ㈫ 自白によると、右手提金庫には借用証書二十三枚が存したが、被告人はその中から五枚を取り出してこれを溜池より約二〇〇メートルはなれたN生命保険会社専用グラウンド裏の草むらでマッチによって焼却したとある。しかるに道路南側溜池より司法警察員によって捜索発見された右手提金庫の中には、被告人のものである「植木寅夫」名義の借用証書が残存し、持ち去られた五枚の借用証書の中には「猪木重夫」名義のものがあったことは、被害者山岸甚兵衛所持の金融台帳等によって推定し得る。この事実に対し、検察官ならびに捜査に従事した司法警察員は、被告人がうす暗がりの中で見たために「植木寅夫」と「猪木重夫」とが字体の酷似の故に見誤ったのであると主張する。  この主張は、もっともなところはあるが、一方、弁護人の主張する如く、もし被告人が本犯事件の真犯人ならば、自己の借用証書を強奪することが一つの目的である故にそれを入念に検したであろうという主旨の意見に説得力を感ぜざるを得ない。  ㈬ 被告人がその司法警察員に対する各供述調書、司法警察員に対する弁解録取書等を見ると、取調べの司法警察員より自白を脅迫、長期拘留等による強制をされた形跡は無いが、詐術によって利益誘導訊問された感じは拭いきれない。被告人の検察官に対する×月×日附および×月×日附の第一、第二、第三回の供述調書ならびに当法廷に於ける裁判官に対する陳述はそのことを強く申立てているのであるが、また一方においては本犯罪が被告人の所為でなかったという積極的な心証を形成するに至らない。とくに被告人が事件発生当時「万牌荘」から約一時間姿を消した事実について、その行動の証明が客観的になされていない点、ならびに被告人の姿を被害者宅に通じる路上において自宅便所の窓より目撃したという中村是也の証言など大いに疑点の存するところである。すなわち被告人の司法警察員に対する最初からの自白に真実性を認めるべき点があることも思料せざるを得ない。  ㈭ しかしながら、以上を考察したところをかれこれ綜合すれば、本犯事件が被告の行為より出たものであることを証明する本裁判所領置にかかわる薪用の松割木が、前記のごとく犯行とかかわりがないことを認定せざるを得ない以上、また、被告人の自白以外にはこれを犯人と断定するに足るなんらの証拠が存在しない以上、或いはまた、自白中に散見する疑点が解明されない以上、究極のところ、被告人が犯人である事実について、合理的な疑をいれない程度にまで立証されたものとはいい得ない。すなわち本件公訴事実は、結局その犯罪の証明が不十分であることに帰着するから、刑事訴訟法第三百三十六条により被告人に対し無罪の言渡をする。……      6  ──それから、ほぼ一年が過ぎた。  原島は夜ひまがあると法律関係の本を読んでいるが、ある晩、英国の裁判官ジェームス・ハインド判事の「無罪判決の事例研究」というのに漫然と眼を通していると、次の文章にぶつかった。  彼は、最初の三分の一くらいのところから身体を起し、半分をすぎたころから、胸をとどろかせて読み入った。 ≪一九二×年の秋、英国のマンチェスター市に住む銃器製造会社の工員ピーター・カマートンは、アマーシャム夫人を殺害した上、その家に放火したかどで逮捕され、起訴された。当時カマートンは金に困っていたので、小金持ちで寡婦であるアマーシャム夫人を殺害し、金銭を奪うべく計画した。  カマートンは、その夜七時ごろ、アマーシャム夫人の家に行き、携えた長さ五十センチばかりの鉄材で夫人の顔面を数回強打し、さらに自分のズボンの皮バンドを外して夫人の首を締めた上、部屋の中から百五十ポンドばかりの現金と宝石一箇とを奪って逃走した。  その上、彼は自分の犯跡をくらますためにアマーシャム夫人の家に放火しようと考え、九時ごろ再び同家に引返して、石油ランプに火をとぼし、これを室内の洋服ダンスの上部に斜めになるよう本を半分ほど下敷きにして置き、その洋服ダンスの下には紙類や衣類を寄せ集め、石油ランプが転倒して下に落ちた時には紙類や衣類に火が移って燃えやすいようにし、延焼して家に火事が起るように仕掛けた。その一時間後には、夫人の家の裏を走っている線路に貨物列車がくるので、その震動で、洋服ダンスの上の不安定な石油ランプが落ちるようにしたのである。彼は夫人の家の地盤がゆるく、列車の通過のたびに、家が揺れるのをかねてから知っていた。かくて三時間後に同家は火災によって全焼した。消防車が駈けつけたけれど、これを消し止めることができなかった。  ピーター・カマートンは、間もなく逮捕され、犯行を自白した。しかし法廷は、被告人は自白しているにもかかわらず(のちカマートンはこの自白を撤回したが)犯罪の証拠が不十分であるとして無罪にした。  問題は、右の強盗、殺人、放火の犯人が、被告人ピーター・カマートンであるか、どうかという点にかかる。ところが、この事件では被告カマートンと、右の犯罪事実とを結びつける指紋その他の客観的証拠が存在しなかった。また状況の点から考えても、カマートンを犯人と認定するに足るものが弱かった。事件後のカマートンは友人その他多くの証言を綜合しても彼が事件後、逮捕にいたるまでの間に、何ら異常を認める態度や言語がなかった。のみならず、彼は事件発生の翌日、ロンドンに遊びに行ったのであるが、ロンドンからマンチェスターに戻れば、警察の取調べを受けるであろうことが明瞭であったにもかかわらず、自ら強く希望してマンチェスターに赴《おもむ》いた事実などを認めると、むしろ被告人に有利な状況であるとすら思われるのであった。  カマートンは警察で自白し、のちになってその供述をひるがえした。その自白については、警察官の強制によるものであるから、任意性を欠くものであると彼は主張した。しかし裁判所の取調べたすべての証拠には、その主張を認めるものがなかったので、裁判所では彼の最初の自白を、証拠能力があるものと認定した。  しかし、一方、右の自白の内容を他の証拠と対照しつつ仔細に検討してみると、少なくとも次のような重大な疑問に逢着《ほうちやく》した。カマートンは、警察での自白の中で、アマーシャム夫人を鉄材で殴打した点について、はじめ『夫人は、入口のドアを細めに開けて出てきた。それで自分は、夫人が顔をすっかり出したところを、いきなり鉄材で殴った』と述べたが、二日後には『自分は夫人の許しで室内に入り、差し向いで椅子に腰掛けて話をしていたが、その際、彼女の油断を見すませて殴った』と、供述を変更した。  殺人事件において、入り口に顔を出したところを、いきなり殴ったか、室内に入って椅子にかけ、話をしながら、殴ったのかは、きわめて重要な点である。凶行のこまかい部分については記憶違いも充分にあり得ることだが、右のような点に思い違いがあったとはとうてい考えられず、また、カマートンがこの点についてわざわざ虚偽の供述をしたと考える合理的な理由も乏しく、もし被告人の自白を真実と認める前提に立つと、この供述の変更は、説明に苦しむことであった。  アマーシャム夫人の顔を殴打した回数については、カマートンははじめの取調べで、『一回殴打した』と述べたが、二日後には、それが『二回』となり、一週間後では『力いっぱい殴ったが、夫人が頭を前に下げたところを四、五回続けて殴打した』と述べている。しかし鑑定医の作成した鑑定書によると顔面の骨折状態は攻撃は一回であったという可能性も成り立つことが判明した。  このことは、右の殴打の回数に関し、被告人カマートンの自白が真実に一致しないという重大な疑いを生ぜしめた。記憶の不確かな者の思い違いで、このような供述をしたものとは到底考えにくいし、また、一方に、カマートンを真犯人とするならば、ことさらに自己に不利益と思われる数回以上殴打したという事実を偽って供述したと考えられる根拠も見当らない。この点も自白の真実性に対し、一つの疑問を投げかけたのであった。  犯行に使用した凶器に関しても、逮捕直後、警察官がカマートンに『この鉄材に見覚えがあるか』と尋ねたのに対し、カマートンは『この鉄材に私の指紋があったでしょう。これらしいのですが、どこにありましたか。これを持って行く時、その付近に同じような鉄材がたくさんありましたから、はっきりわかりませんが、見覚えがあるようです』といい、カマートンは自分で鉄材を右手で右腋下に抱えこむようにして、長さを測っていたが、『これですよ、間違いありません』と警察官に明言した。  ところが、鑑定人が被害者の顔面に残っている傷を見ると、その傷の幅はカマートンが申し立てる鉄材の幅三・五センチより三倍以上ひろいものであった。裁判所に保存された証拠品の鉄材を実測すると、右の結果と合致することが判明した。このことから考えると、カマートンが申立てた鉄材は、この犯行に使用されたものとは別のものであるということになる。にもかかわらずカマートンがこれを警察官に示して、これを犯行の際に使用した凶器であると申立てたのは何故だろうか。カマートンは真犯人ではあるが、犯行の際使用した鉄材の記憶が不正確で、その識別を誤ったというのであろうか。しかし前述のように真の凶器は証拠品である鉄材の幅の三倍を必要とするというのであれば、カマートンが、わざわざこれを腋下に抱えることまでして、ほとんど断言に近い供述をするというのは不自然である。むしろその供述中に指紋のことまでいっているなど、供述全体の印象からすると、鉄材についての確実な記憶がないか、あるいはその鉄材が全然無関係なものと知りながら、ことさらに捜査に迎合して、このような供述をしたのではないか、という疑いが強く生じてくる。  もし、そうであるならば、何ゆえに犯人である者が凶器について、このような迎合的な供述をする必要があったのかが問われなければならない。  また、カマートンは、放火の方法について前記の供述をしているが、警察の現場検証によると、洋服箪笥の下には被告人の言葉にあるように転落した石油ランプがなければならないのに、そのようなものは認められなかった。現場検証に際して、たとい発火地点ではないにしても、これと隣り合った洋服箪笥の下に石油ランプがあれば、捜査官がこれを見逃すことはあり得ないから、むしろ石油ランプのようなものは、はじめから存在しなかったと判断せざるを得ない。このこともまたカマートンの供述の真実性に大きな疑惑を抱かせる理由となった。  以上、かずかずの疑問点があるにもかかわらず、証拠不十分として裁判長は被告人に無罪を言渡した≫  読み終った原島は、活字でいきなり顔を殴られたような気がした。  これは偶然の一致だろうか。それにしてはあまりに似すぎている。  いやいや、植木寅夫はこの本を読んだことがあるのだ、と原島は思った。これは直感である。  植木の前歴が古書店の店員だった。十八の年から二十五歳までつとめている。それから結婚して、畠違いの中華料理店を開いたのだ。  原島は、植木の訴訟記録の写しを引張り出した。古書店の名をたしかめ、古本に詳しい友人に電話した。その古書店は法律書が特徴になっているという。  そういう古本屋だと、ジェームス・ハインド判事の「無罪判決の事例研究」もきっと置いてあったにちがいない。この本は戦前の訳書であった。店員植木寅夫がこれを読んだ形跡はたしかにある。  犯人が警察の追及から遁《のが》れることは容易でない。犯跡を晦《くら》まそうと工作すればするほど、不用意なミスからアシがつく。これまでどれだけの殺人犯人が巧妙な偽装工作の酬いで死刑になったり、長期の懲役に服したかしれない。たとえ、逃走しても、その逃走中の不安や苦労は、いっそ監獄のほうがまだいいと思えるくらいだろう。  それなら理想は、堂々と警察につかまって、無罪を獲得することである。植木寅夫が自分を苦しめる山岸甚兵衛殺しを決意したとき、考えたのはこれだったろう。その際、植木の脳裡に古書店につとめているときに読んだ一冊の本が浮ばなかったとはだれもいえない。  マンチェスターに起ったピーター・カマートン事件では、カマートンが凶器として幅の違う鉄材を申立てたために、警察ではうっかりとその自白に従って別個の鉄材を証拠品とした。植木の場合には、それがそっくり薪用の割木となっている。逮捕後、カマートンが警察官から鉄材を示され、「これらしいですね」と自分で鉄材を右腋下に抱えこむようにしてその長さを測り、「これですよ、間違いありません、私の指紋があったでしょう」というくだりと、植木が捜査員に割木を指摘し、それを手にすると三、四回振って記憶に残っている感触をたしかめ、「これだったと思います。間違いありません。けど、これにはぼくの指紋が付いていませんね、たしかにあるはずですが」というあたりとは、まったく瓜二つである。植木は、この英国の犯人に倣《なら》い、わざと自己に不利益なことを自白した上、あとでその自白は警察官に強制され、利益誘導されたものだという印象を与えたかったのだ。  彼は割木はもとより現場には何一つ指紋を残していない。手提金庫にもない。おそらく最初から手袋をはめていたのだろう。  植木を取調べた警察官は、彼が最初から協力的で「愛想がよかった」といっている。これで警察はだまされ、いい気分になって、ろくろく証拠固めもしなかった。カマートンが被害者アマーシャム夫人を鉄材で殴った回数も「一回」から「二回」となり「四、五回」と変る自供と、植木の「六、七回」が「三回」と変ったのと同じではないか。両方とも実は一回であった。  座蒲団のことも、実は植木が「甚兵衛さんが出してくれたが、犯行後にそれを片づけた」と自分のほうからいったのであろう。彼は甚兵衛が金を借りにくる客には座蒲団を出さない習慣を知っていたから、それを利用したに違いない。また、手提金庫に自分の借用証書を残していたのも、芸のこまかいところで、犯人がそれを残すのは不自然であるという判決を得ようとした狙いだ。山岸甚兵衛は独り者で、兄弟もなく、甥や姪もいないから、彼の死と共にすべての債権は自然消滅である。  もし、推定されるこの真相を警察官が知ったらどのような感想を持つだろうかと原島は思った。それにしても、法廷での対決質問に、植木からその「自白の強制」「利益誘導」ぶりを高姿勢に指摘され、攻撃されたのに対し、警察官がタジタジとなっていたのは、どうしたことだろう。警察官は被告のあまりの白々しさ、図々しさに呆れ、自分たちの陥った罠に呆然となっていたのかもしれない。だが、法廷でのあの堂々とした植木の勇敢な態度を見たとき、原島は彼の最初の自白に任意性のないことを確信したものだった。  原島は落ちつかず、椅子から立って書斎の中をうろうろと歩いた。それから気をしずめるために、本棚から薄い一冊の本を抜いて、漫然とページを開いた。 ≪……被告人の自白が強制に基くものであるか否かは単に被告人の犯行に対する供述の動揺することや、公判廷における証人としての警察官に対し、被告人の執った態度の『堂々たる勇敢さ』をもって決すべきでなく[#「公判廷における証人としての警察官に対し、被告人の執った態度の『堂々たる勇敢さ』をもって決すべきでなく」に傍線]、その自白内容の真実に適するかどうか、被告人の性格並に人物はどうであるか、被告人がどういう動機で自白するに至ったかなどの具体的事情を証拠に照らして観察することによって決すべきである。しかるに原審は其の取調べた諸般の証拠を十分に検討して被告人の自白内容の真実性を発見する努力を傾けた形迹《けいせき》がない上、被告人の特異な性格と、卑屈で虚構に満ちた人格に目を蔽い、その自白調書の任意性を否定したのは不当である[#「被告人の特異な性格と、卑屈で虚構に満ちた人格に目を蔽い、その自白調書の任意性を否定したのは不当である」に傍線]≫(名古屋高裁金沢支部 昭二九・三・一八 高裁刑事特報)  ──植木寅夫は、いま何処にいるか分らない。彼は判決後、駅前の土地は某土地会社に高く売りつけて、立ち去った。彼は原島のところには礼にも来なかった。ただ、電話で、 「おかげさまで助かりました。先生は、優秀な弁護士さんです。そんな方に、弁護料を一文も払わずに済みました。申しわけのないことです」  といっただけだった。  植木寅夫が交通事故にでも遇って死ねば、「天の摂理」とか「勧善懲悪」の結末になるのだが──実際はそうはゆかないようである。 [#改ページ]    葡萄唐草文様の刺繍      1  ブリュッセルの十月半ばは寒い。夜になるとホテルのロビーの真ん中で焚火をするくらいだから。──鉄製の大きな四角い炉があって、横に井桁《いげた》に積んだ白樺やモミの割木を、周囲の客は椅子に腰かけながら火が衰えると一、二本ずつ投げこむ。ロビーの天井には凝った意匠の大シャンデリヤが輝いているのに、客は赤い炎の色を好む。  ホテルはアメリカ式建築で、広い幅の環状線にあたる坂道の上にあった。このならびは目抜きの商店街だが、その背後はすぐ中世風な教会や民家がならんでいる。ホテルの九階の北向きの窓に立つと、緑青《ろくしよう》をふいた最高裁判所の円屋根《ドーム》が十七世紀の黒ずんだ巨大な建物の上をどっかと蔽《おお》い、鳩の群を紙吹雪のように遊ばせている。それが眼と平行のところで見えるのだ。背後もバロック風な建造物を交えた建物が幾重にもかさなり合い、尖塔などをいたるところにちりばめ、丘下の低地にひろがる。その遠くのほうは霧がかかったようになって、じぐざぐの、茫乎《ぼうこ》とした街のシルエットになっている。全体が青錆びてくすんでいるから、ホテルから見たブリュッセル全体が、騎馬に乗った中世の王様の銅像そのままに古いブロンズといってよかった。  日本人の中年夫婦がその九階の部屋に泊っていた。夫は野田保男といって、それほど有名でない会社の社長であった。どういう営業の会社かはこの際必要はない。とにかく中企業(中企業をどのへんの線で引くかはむずかしいが)でも、中程度の規模だった。妻は宗子といった。夫が四十五歳で、妻は三十六歳だった。  保男の叔父が一流会社(これは日本有数の大財閥会社)のロンドン支店長をしていて、二週間ばかり招待してくれた。南回りで、バンコック、アテネ、ローマ、ジュネーブに一、二泊ずつしながら往った。夫婦ともどもというわけにはゆかないから、宗子のぶんの旅費は自前だった。帰りは叔父が商用のついでにパリまで送ってきて三、四日を共にし、それからは夫婦でブリュッセルにきた。あとはオランダから帰国する予定だった。  日程がないから遠くには行けず、ブリュッセルではワーテルローまでがせいぜいだった。公園の中には森林の落葉樹が真紅に燃えて、日本の気候とはひと月くらい違う。これから冬に向うと、さらに気候差は開いてくるのだろう。宗子は和服できていた。  ロビーの隅の壁や陳列窓に商品見本が出ている。アーケードの売店街が少しはなれたところにあるため、ホテル客の眼をひくため飾ってあるのだが、時計とか宝石とか化粧品などといったもののほか、レース編のテーブルクロースとかハンカチとか刺繍の壁掛などが多い。ベルギーの刺繍は誇っていい伝統である。しかし、ホテルの売店のは規格品で、レース編物を見ても心を誘われるものはなかった。この程度の土産品なら何処でも売っていそうだった。  しかし、壁に額ぶちのように小さな陳列窓に入れて掲げてあるテーブルクロースの刺繍が野田と宗子の眼を惹《ひ》いた。はじめに気づいたのは宗子で、あれはいいから買って行こうといい出した。  ケースにはきれいにたたまれたのが入っているのだが、地色はベージュに近い淡い茶色で、レースの白い縁飾りが付いている。地のところには、共色《ともいろ》の茶の濃淡で調子をつけた葡萄《ぶどう》の唐草文様の刺繍があった。その意匠《デザイン》が何ともいえぬほどいい。簡素というのではないが煩雑でなく、荘重な異国情緒がある。 「奈良の薬師寺金堂の台座の模様に似ていますよ」  宗子がいった。そういえばこれもペルシャ風な模様だった。異国情緒が感じられるのはそのせいかもしれない。 「これ、手製ですよ。機械の縫取りじゃないわ」  宗子がケースのガラスに眼を近づけていった。 「そりゃそうだろう。高級品のようだからね。さすがに本場の伝統の誇りを見せてるんだね」 「買ってゆきたいわ。でも、売るのかしら? お店の名前はあるけど、値段が付いていませんよ」  ケースには特別品を見本として出して実売しないのがある。そういえば売店の陳列棚には見えなかった。  念のためにロビーから奥の売店の通りに行って、レース編や刺繍品をならべている店の前をのぞいたが、みんな普通のお土産用ばかりだった。あの見本についている店の名前とも違っていた。女店員に訊くと、このホテルにはそういう店は出てないと無愛想にいった。どこも同じで、よその店のことはろくに教えてくれない。ロビーに飾ってあるからには商品見本で、げんに店の名前が横に出してある。分らないとなると、よけいに欲しくなって野田はフロントに行った。野田よりも宗子が買いたがっていた。  フロントの事務員は答えた。その店はこの中に売店を置いていない。昔からある老舗《しにせ》で、家内工業的にやっているので大量生産はしていない。もちろん高級品である。あそこに出ている見本の程度で一枚七千五百ベルギーフランくらいだ。──約百五十ドルである。やはり安くはなかった。  野田は、その店がホテルから五、六分くらいのところだと聞いて、アドレスと略図を事務員に書かせ、コートを着て宗子といっしょにホテルを出た。略図によると、前のマロニエの並木のあるひろい通りを左に一ブロック下って、右に入った横丁の中ほどになっている。  坂だらけのブリュッセルの街はどの道路も石だたみだが、横丁は道が狭く車もあまり入らないだけに石だたみは表面の磨滅が少なく、ふちが欠けたり、ひび割れがしているままにもり上っていた。その辺一帯は煉瓦造りの同じような家がならび、住宅とも商店ともつかなかった。住宅とすれば庭がなくて殺風景だし、商店とすればショウウインドーでなく普通の窓で、それも表の扉も重々しく閉め切ってある。暗い軒下にぶら下っている小さな看板の一つにようやく目当ての店の名を野田夫婦は見つけることができたが家の構えはしもたやであった。  ブザーを押すと、厚い樫のドアが半分開いて白髪の上品な婦人が姿を見せた。野田が来意を告げると、どうぞと微笑して扉をいっぱいに開いた。  表から見て住宅と思ったのも道理で、中は住居を店舗に改造していることが分った。二階があるらしいが、客が階段を昇れるかどうかは分らない。階下いっぱいが商品の陳列場で細い通路の両脇に陳列ケースが何列かにならび、そのうしろの棚にも巻いた布地が積み上げられ、壁にはテーブルクロースだとかナプキン・セットだとか、油絵と同じ刺繍の壁掛などが貼られて展示されていた。ガウンもスーツもジャケットもあった。陳列ケースの中にはナプキン・セットとかネッカチーフとかハンカチとかテーブルクロースとかの小物がおさまっていた。刺繍もレースも見事なものばかりだった。みんな手造りで、その工場は別な場所にあるということだった。店にはこの白髪の婦人だけで、バラ色の頬と、深いエクボのある静かな微笑とが印象的であった。  ホテルに出ていた見本のテーブルクロースは陳列ケースにいく種類もならんでいた。もちろんデザインも葡萄の唐草だけでなかった。色も見本の地色がベージュのほか薄桃色と淡い緑色のとがあった。宗子が眼移りして、選択に迷っている間、野田は壁掛の刺繍画を眺めて立っていた。宗教画も風景画もある。彼はそのフランドル派(これは本家だった)の田園風景を眺めているうちに、テーブルクロース一枚を水沼奈津子への土産として持ち帰りたくなった。往路ジュネーブでこっそり買った婦人用のローレックスは、自分の持ち歩く鞄の底に妻の気づかないところに忍ばせてあるが、葡萄唐草のテーブルクロースも与えたかった。しかし、妻がすぐ傍にいるのでは手が出なかった。実はこの旅には妻に内緒の金を用意してきていた。女持ちの時計もその中から買ったのだ。  宗子は結局、予定通りその白いレース縁の付いたテーブルクロースを二枚買った。六人掛けのテーブルの大きさで、一枚が七千三百ベルギーフランだった。揃いのナプキン・セットも欲しかったようだが、土産品が予算を食いこんでいるので我慢したようだった。 「この薄桃色のは良子のとこにやって、こっちのベージュのはウチで使いましょう」  良子は彼女の妹だった。大森にいる税理士と結婚していた。宗子はその二枚を陳列ケースの上にならべて拡げ、つくづくと眺めて、 「いいわね。銀座のウインドーにも見かけないわ。日本には来てないのね」  と弾んだ声でいった。  野田が日本にも輸出しているのですかと老婦人に訊くと、とても外国に出すほど数が出来ないと彼女は答え、手造りがどんなに手間を食うかということや、そして職人も少なくなっていることを説明した。宗子にもその身ぶりで判ったらしく、 「それだと、なおさら日本では貴重品だわね。良子、きっとよろこぶわ」  と笑顔をひろげた。  マダムがそれを箱にたたんで納め、包装する間、野田はお預けをくった犬のような眼つきで、ケースの中のテーブルクロースの山を眺めていた。薬師寺の金堂にある釈迦三尊像の台座に刻まれたのとそっくりな葡萄唐草が、その布の山の端に何十本となく絡みついていた。その一枚をちょっと貰えばいいのだが、声が出なかった。  野田は友人の名前をいろいろ考えたが、こういう家庭的なものを土産にするほどの先は、ほとんど妻も知っているので、うっかり利用はできなかった。あとで何かの話で嘘がばれそうで心が臆した。  といって、友人に口裏を合わせてもらうのも気がすすまなかった。女に与える品のことで加担してもらえば弱味が生じる。陰で噂されるのが嫌だった。  野田はその包みを抱えた妻といっしょに店を出たとき、苛々した。彼女がいい土産ができたと喜べば喜ぶほど、同じ文様のテーブルクロースが欲しくなった。女の気持に変りはあるまい、水沼奈津子も手にしたときはどんなによろこぶか分らない。日本には来てない品だといえばもっとうれしがるにちがいなかった。その顔や様子を野田は見たいのである。  女房などと外国旅行するものではないという箴言《しんげん》も、将来のことはともかく、この場には間に合わなかった。自由な行動はおろか、自分の欲しいものが一つだって買えない。ホテルに帰る道すがらの中世ロマンチシズムの風景も索然となった。こっちの気持まで錆びつく。  ホテルが近くなってからでも野田の未練は断ち切られていなかった。引返してでもテーブルクロースをもう一枚買ってきたかった。 「ねえ、あすこに見える小さくて古めかしい寺院ね、ブリュッセルではいちばん旧いお寺ですって。でも、新しい建物の間に挾まったら見すぼらしいわね」  包みを持った妻が話しかけた。  ……引返してでも──そうだ、引返すことは可能だった。      2  部屋に戻ったときが三時だった。窓から見える街の半分以上が日かげに蔽われていた。北海に沿った国々の秋は黄昏《たそがれ》が早い。  この街に居るのも今晩限りなので、宗子は買ったテーブルクロースの包みをトランクに納めるために整理をし直している。荷物は大型スーツケースが二つに、白い化粧箱が一つ、それにカメラとかガイドブックとか各地でもらったパンフレットのようなものを雑多に詰めた航空会社のバッグが一つあった。これは野田がいつも肩にかけて歩くので、宗子もこの中の整理には一切手をふれないでいた。ジュネーブで買った女持ちのローレックスはバッグの内側の深いところに隠していた。 「おい、そんなにひとりで張り切っているとくたびれが出るぞ」  野田は床に両膝を突いてスーツケースの詰め替えをしている宗子にいった。 「そうね。でも、あとでがたがたするのは嫌だから思いついたときにあらかたやっておくわ。あなたは疲れたんなら、べッドに引っくりかえっていたら?」  宗子は見返りもせずにいった。 「うむ」野田は、ここぞと思って、 「少し疲れはしたな。しかし、寝ていてもしようがないし、階下のコーヒーショップに行ってビールでも飲んでくるかな」  と、あくびまじりにいった。 「あ、そうなさいよ。それがいいわ」  宗子は、野田が何もしないでそこに居るのが邪魔になるのか、それとも土産物をいっしょに買いについて行ってくれた労を犒《ねぎら》うためかすぐに勧めた。  野田は、わざとコートを手に取らないで部屋を出て行った。寒いかも知れないが、なに、すぐ其処だと思った。エレベーターで降りてロビーを玄関に向って足早に横切り、外に出た。車の多い道路の横を歩いてホテルの窓を見上げたが、宗子に見える気遣いはない。部屋は反対側の裏に当る。玄関屋根上の万国旗だけがうすら寒い風に勢よく動いていた。  野田は再び横丁の石だたみの上を歩いた。日ざしは三階建の上部まで上って、道も家の入口もうす暗くなりかかっていた。やはり肩が冷えた。しかし、単身で歩くのに自由を感じ、寒いだけでなく、ひとりでに大股となった。これで水沼奈津子がいっしょだったら、どうだろうかと考えた。女房と歩くような素気ない気分ではあるまい。  水沼奈津子は銀座のバーのマダムだが、詩を書くので名前が知れていた。詩のよしあしは野田にはさっぱり分らなかったが、詩をつくるほどの女だから、中世の影濃いこのブリュッセルの街に連れてきたら、どんなに感激するだろうかと思った。半年前にはじまった彼女と野田との関係はまだ誰も知っていなかった。油断のならない常連も気づいてなかった。奈津子にいわせると燈台下暗しだそうである。二人だけのことを考えると、こういう石だたみを歩きながら、十七、八世紀の大伽藍《カテドラル》のドームや尖塔の影絵を、バロック風な建造物を近景に置いて眺めたら、立ちどまって声を上げ、身を戦《おのの》かして昂奮するだろう、と野田は思った。こうした石だたみを踏んで歩くのにも、奈津子だと片腕にまつわって、ぴったりと身を添えてくるにちがいない。人通りが少ない道を歩いて、野田は空想に駆られ、その実現をできるだけ早い時期に迎えたい希望を募《つの》らせた。  元の家の前に戻ると、野田は静かにブザーに指をかけた。扉が容易に開かなかったので、もう店は閉ったのかと思ってひやりとしたが、その心配は消えて、やがてきれいな白髪のバラ色の頬をもった老婦人の顔を開いたドアの正面に再び見ることができた。  婦人は野田が忘れ物でもしたのかと一瞬|訝《いぶか》しげな顔をしたが、彼が口早にテーブルクロースをもう一枚欲しいので来たのだというと、静かな微笑を蘇らせ、再び店の中に招じ入れた。店内は前と同じように客も店員も居ず、彼女がたった一人であった。  野田は躊躇《ためら》わずに、葡萄唐草の意匠を択んだ。色もベージュの地に茶色の模様だ。婦人は硝子《ガラス》ケースの中からその一枚をとり出し、包装をはじめた。彼女の両の口もとのエクボはつづいている。  老婦人は、マダムはいっしょではありませんかと紐を捲きつけながら訊いた。妻はホテルで憩んでいると野田は答えたが、つい用心が出て、このテーブルクロースは妻の知らない自分の友人に贈るのだから、どうかそのつもりでいてほしいといった。  日本語でも表現のむずかしい言訳であるのに、まして英語では思うようなニュアンスの出るはずもなかった。だが、老婦人にはすぐに通じ、にっこりとしてうなずき、彼女も思わず、ウイ、ウイ、ムッシュとフランス語で返事したものだった。その表情から人情の機微を了解したものと思えた。そこで野田も気楽になり、化粧箱は除けてもらって、テーブルクロースだけをもう一つたたんで包んでもらうように頼んだ。箱入りでは嵩張《かさば》って荷物として隠しようがないのである。これにも婦人は、それは気のつかないことをしたといった表情で、急いで包み変えてくれた。多分、この銀髪の婦人は女主人ではなく、この店の傭われマダムであろうが、よほど過去に人生経験を積んでいるとみえて察しが早かった。おそらくは彼女自身が隠れた贈り物をもらった記憶を持っているのではなかろうか。野田は感謝の色を湛《たた》えた眼で、若いときはさぞ美しかったに違いない婦人の顔を見つめた。  まるで閉館前の博物館の一室を出るような感じで野田はその閑寂な店を辞した。  ホテルに戻ると彼は売店で新聞を買い、コーヒーショップに入ってまずビールをあおり、次にウイスキーをグラス三ばい口の中に流した。うすら寒い外をコート無しで歩いてきたので、酔うのが手間どると思ってこんな飲み方をした。ちょっと時間がかかっているので、酒を飲んだという顔を妻に見せなければならなかった。その間に、あの店の包紙を解き、テーブルクロースを出してもう少し小さくたたみ、新聞紙に包みかえた。少々たたみ皺《じわ》がつくかもしれないが、アイロンをかけたらきれいになる。綿の布地は厚く、これも日本には見かけない、とび切り上等のものだった。現地で一枚五万円もするのだから、日本でもし買えるとしたら、一枚十万円はするだろう。  コーヒーショップを出ると、ロビーの真ん中ではもう炉に火が入っていた。五時を過ぎて、外は夜になっていた。野田は炉端に行き客にまじってできるだけ炎に近づき、顔を焙《あぶ》らせた。顔が火照《ほて》っていることを自覚しながら部屋の前に戻った。新聞紙はなるべく腋の下に抱え込むようにし、妻が訊いたらベルギーの大型雑誌を五、六冊買ってきたと言訳するつもりであった。外国語の雑誌などに彼女は興味がないから、見せてくれとはいわないはずだった。  ドアを開けて入ると、宗子はツインベッドの片方に横たわっていた。大型スーツケース二つは壁に寄せられてきちんとならんでいた。しかし、航空会社のマークのついた彼のバッグだけはもとのかたちのまま机の上にぞんざいに置かれてあった。朝から外を見物して回り、一旦帰ってテーブルクロースの買物に行き、戻ると今度の荷物の整理をやったので宗子は疲れたのか、野田の赤い顔が戻ったのも知らずに熟睡していた。  帰国した野田は、会社に出た第一日目の帰りに、芝にあるマンションに出向いた。そんなときは送りの運転手を断わり、タクシーを使った。 「みぬま」というバーは銀座にあるが、マダムの水沼奈津子はその高価《たか》いマンションの五階の一部屋をかりて、ひとりで住んでいた。野田が前もって電話しているので、彼女は今夜は店に出ないで待っていた。四畳半の畳の間には応接台を置いて、その上にはいろいろな日本料理がならんでいた。大きな尾頭つきの鯛があった。赤い椀の中は赤飯であった。 「ご無事でお帰りになって、おめでとう」  奈津子は野田の盃に酒を充たし、自分も野田に注いでもらった盃を上げていった。 「ありがとう」 「三週間って、待ってる身にはやっぱり長いわね」 「ぼくも早く帰りたかったよ」 「でも、愉しかったんでしょ?」 「いや……」  野田は盃を口に当てた。  外国旅行が妻といっしょだったのは奈津子もむろん知っていた。しかし、発つ前に奈津子はなるべくそれを気にしないようなふりをしていた。旅立ちの前に彼の気持を乱してはいけないと自制しているようであった。だが、帰国してはじめて彼の顔を見てから感情が出かかった。  野田は奈津子との仲が半年前にはじまったばかりだが、さすがに十年以上も自分の店を維持してきているだけにしっかりした女だと思った。三十歳といっているが、ほんとうは三十五である。色が白く、少し肥えている。肥えた女は肌のきめがこまかいので化粧映えがする。まる顔は野田好みであった。眼が細く、ちょっと低いが可愛い鼻をしている。唇は締っていた。  詩を書く。自費出版だがこれまで豪華版の詩集を二冊|上梓《じようし》して話題を撒いた。詩人と詩の評論家が洋酒のPR雑誌に賞讃の辞を書いた。一口にいってヘルマン・ヘッセの詩脈の再生だと述べた。抒情詩なのである。奈津子はそんな詩人の詩など読んだことはなかった。だが、専門家や評論家が作家の気づかぬ長所を発見し、抽出してくれるのだったらありがたい話だった。もっとも専門家でもへッセとミュッセとを間違えるのがいる。  彼女が「客間」と呼ぶ八畳くらいの洋間には立派な応接セットが置かれていた。壁際には、背皮に金文字の光った詩人全集がならび、自著二冊がその端に挿し込まれていた。次の四畳半くらいの洋間が「書斎」で、大型の机があり、大型のスタンドがあり、原稿用紙があり、詩集、詩の雑誌がいくらか乱雑に置かれてあった。「客間」には店の女の子が侵入できるけれど、「書斎」は彼女の仕事場なので許されなかった。「書斎」と前後にならんだ日本間が六畳で、「書斎」の次がドアで仕切られた寝室になっていた。そこは大きなベッドだけで余裕がなかった。──このような間取りに興味をもつのは建築雑誌の編集者か、何か事件が起ったときの警察の鑑識係ぐらいなものであろう。  野田保男が奈津子にジュネーブから買ってきた婦人用の腕時計(文字盤には紅玉《ルビー》が一つと十一のダイヤモンドの粒がちりばめてあった)に眼を瞠ったのは当然のことだから、べつにいうことはない。だが、ベルギーで求めた葡萄唐草文様の刺繍されたテーブルクロースは、野田の苦労がこもっているだけに、彼女のよろこびを強調しておく必要がある。 「とても素敵よ。さすがに本場ね。日本にあるのとデザインが全然違うわ、縁についている白いレースの文様も可愛いじゃないの」  奈津子は、六人掛け用のテーブルクロースを拡げて、眼を輝かし、ためつすがめつ眺めていた。野田はそれを見て、ブリュッセルのあの店で妻が同じものを陳列ケースの上にひろげて見詰めた姿を思い出したが、奈津子の眼は細いけれど、宗子よりはずっと知的な鑑賞力が含まれているように思われた。 「うれしいわ。わたし、このデザインから何だか詩想が湧きそうよ。きっと素晴しい詩が出来るにちがいないわ。ねえ、これ、ずっとテーブルの上にかけておくわね。大丈夫、あなたから貰ったとは人にはいわないから。ずっと掛けておいたら、次々と、永遠に傑作の詩が生れそうだわ」  しかし、彼女は殺された。      3  水沼奈津子が絞殺されたのは一月十七日の夕方であった。時間は午後五時半ごろから七時の間とみられた。その警察の推定は次の根拠からだと新聞は報道した。  マンションの部屋の、日ごろから彼女が「客間」と呼んでいる洋間で横たわっている死体を発見したのは、「みぬま」のホステスだった。その店の女は特別な私用(マネージャーや朋輩と意見が合わないとか、給料をもっと上げてくれとか、よその店に移りたいから辞めさせてくれとか、とかく経営者に相談ごとが多い)でママの部屋を訪ねてきたのだが、ドアが一センチばかりの隙間をつくって開いているので、ブザーをかたちだけ押して、中に入ってみた。ママはテーブルと長椅子との間に落ち、頸に紐の輪を巻かれ、細い眼で虚空を睨んでいた。|飴色をしたきれいなテーブルの木目《ヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽヽ》の上には電燈が光を落していた。  店の女はとび出して、まっすぐに警察に届けに行った。これが七時ごろである。所轄署と本庁から捜査員と鑑識係がきた。鑑識係は現場をはじめ各部屋の見取図をつくり、写真撮影をした。検屍では被害者は死後一時間そこそこだろうと推定されたが、あとの解剖の結果も同じであった。屍体に性の遂行のあとはなかった。部屋の中は荒らされてなかったので、強盗説は最初からうすく、バーのマダムという商売柄、男女関係説が強かった。  聞込みが行なわれた。まず、店の女がくる前にきた人間の目撃者がさがされた。この高級マンションは隣との防音装置が完全にできていて大声を出しても聞えなかった。それで犯行時の悲鳴も、その前の話声も隣人は聞いていなかった。次にこのマンションの住人は滅多に廊下に出ることもなく、ほとんどが部屋の中に閉じこもり切りだった。むしろ夜の遅い時間に通路の通行人が多いのである。しかし、たった一人、同じ五階に居る主婦から目撃談が得られた。五時半ごろ、水沼奈津子の部屋の前に女がうしろ向きに立っていて、ドアを開けている奈津子と小さな声で話をしていたが、奈津子が通行人を見てすぐにその女を中に招じ入れた、というのである。  だから五時半ごろには水沼奈津子は生きていたのだ。ここから犯行は五時半から七時の間という推定が出てくるのだが、問題はその女性訪問客であった。目撃者は、うしろ姿だったので顔は見えなかったが、髪は外人みたいに赤く、短い真紅のコートに黄色いパンタロンをはいて、バーの女のようだったといった。ほんの通りすがりの横眼で見たのだが、これは間違いないと確言した。  警察は「みぬま」のバーの女全部について聞いてみたが、その時刻にママを訪ねた者は一人もいなかった。ただ、あとの七時ごろの発見者だけである。  だが、五時半ごろの訪問客が、バーに働く女であろうという目撃者の感想には警察でも同感だった。「みぬま」の女でなくても、よその店にいる女の子だって訪ねてくる。銀座のバーは女の子の引抜きその他で移動が激しい。「みぬま」で働きたいと希望する女はママに会いにくるだろう。また、奈津子が口をかけていた女が約束の時間に訪ねてきたのかもしれない。出て行った姿を見た者がないので、その女がどのくらい奈津子の部屋に居たのかは分らなかった。  その女性訪問客が奈津子を絞殺した犯人かどうかは断定できないが、重要な参考人には違いなかった。そこで警察では「みぬま」のマネージャーや、バーの女の口入れ稼業みたいなことをしている連中に訊いたが、心当りはないということだった。しかし、そうした連中の手を経ないで、直接に交渉にくる女も多いことだし、いよいよ話がまとまるまでは、ママはマネージャーにいわないことが多い。  銀座のホステスは二万人以上といわれ、これに周辺の地区のを合わせると何万人になるか知れない。その全部について聞込みを行なうことは不可能であった。また、赤い髪のその女が犯人でないにしても、警察に名乗り出てこないのは、翌朝の新聞で奈津子が殺されたのを知り、面倒をおそれたためと思われた。  しかし、警察では水沼奈津子の身辺を洗って、二人の男を参考人として重視した。彼女は男関係が相当に乱れていたが、これはその仕事の影響であろう。過去のことは別として、現在も数人はかかり合いがあるようだった。捜査本部員の取調べを受けた二人のうち一人は、よその店のチーフ・バーテンで三十一歳、これは三年ごしの間だから、ヒモのような存在だった。もう一人は相互銀行の支店につとめている得意先係で、奈津子の預金のことでたびたび会ううちに一年半前から親しくなった。二十六歳であった。二人とも否認したが、アリバイはなかった。こうなると五時半ごろに奈津子を訪ねてきた赤い髪とパンタロンの女の影はうすくなる。  といって捜査本部でも、これという物的証拠が足りないので、疑いの濃いままに監視しているほかはなかった。そのうちにバーテンのほうは働いている店のマダムと出来ていてその時刻には温泉旅館に二人でいたことを白状し、裏付けも取れて容疑圏内から去った。残るのは相互銀行員だけである。  捜査本部にある被害者の男関係のリストの中には十カ月くらい前からその仲がはじまった野田保男は入っていなかった。奈津子も野田とのことはよほど口を固くしていたようである。  ──野田保男は、会社の用事で大阪にいるとき、この事件を新聞で知った。大阪の新聞にもかなり大きな扱いで出ていた。バーのマダムが殺されたなどはありふれた事件だが、被害者は詩を書いていた。バーのマダムで詩人というのが珍しかったのか、普通よりは扱いが派手であった。新聞には、まるい顔に眼を細めて嫣然《えんぜん》としている水沼奈津子の写真も出ていた。野田保男は大きなショックを受けた。彼は、はじめのうちこそ恋人に対する思慕と哀惜の情に打たれたが、それは警察が犯人を厳探中という記事を読んだあとの不安のために底のほうに沈んだ。  警察は捜査の段階で彼女と自分の関係を探知するのではなかろうか。事件の発生時、大阪に行っていたことははっきりしているから被疑者にされる恐れはないけれど、参考人として訊問を受けることになるかもしれない。犯人が判らないのだったら、なおさら手がかりを求めるためにこっちの話を聞きたがるのではないか。  野田保男は蒼ざめた。警察からそんな訊問でも受けたら、妻に奈津子との関係が分ってしまう。彼はこれまで女性関係で妻と問題を起したことがなかったので、妻の攻撃の激しさを考えて脚が震えた。よりによって男関係が原因で(と新聞には推測が出ていた)殺されたバーのマダムと関係を結んでいたのである。妻はもとより、他人からみてもこんな醜悪なことはなかった。その他人に知れたら社会的にも面目を失うことになる。  大阪での残りの仕事も手がつかない状態で野田は東京に戻った。まず、会社に寄ってみたが、警察からも妻からも電話がかからなかったと聞いて、ほっと安心した。事件発生後三日目だった。犯人が捕えられたという報道がないから警察は目下鋭意捜査中にちがいなかった。危機はこれからも続く。いつ、刑事二人が会社の受付や自宅の玄関に立つか分らなかった。  野田は会社にある新聞綴りをめくった。大阪の新聞よりはやはり詳しかった。犯行は一月十七日の午後五時半から七時ごろまでの間だと思われるとあった。その根拠は、五時半に赤い髪の女が真赤なコートにパンタロン姿で奈津子と部屋の入口で話しついで中に誘い入れられた目撃と、七時ごろにホステスが部屋の中に入って死体を発見したことだった。野田は、その時刻大阪のホテルの食堂で取引先の人と、自社の大阪駐在員と三人で食事をとりながら商談をしていたものだった。  新聞はまた被害者に男関係の多かったのを伝え、すでに数人の男性が容疑の圏内に上っていると説明していた。野田は水沼奈津子に裏切られたという憤りよりも、ことの意外に呆然となった。それがどうしても信じられなかったのだが、いつまでも呆然となっているわけにもゆかなかった。危機が刻々に近づいているように思われた。容疑者が二人浮んでいるというが、まさかその中に自分が入っているとは考えなかった。そうだとすれば、すでに警察が大阪出張の留守にやってきていなければならない。それがないのだから別の男に違いないが、それにしても捜査の網に自分の名が遅かれ早かれひっかかってくるように思われた。  たとえ、どのように奈津子が自分との間の秘密を守ろうとしても、他の親しい男と対《むか》い合ったとき言葉の端に出ないとも限らないし、また、こっちは気がつかなくとも、第三者に見られて知られているかも分らなかった。してみると、いつその危機が自分に襲いかかってくるか、一寸先が予想できなかった。  家に帰ったが、妻の宗子はいつもと変らない態度で彼を迎えた。留守中、会社にも家にも水沼奈津子の殺人事件は波及していなかった。野田は今日までは無事だったが明日はどうだか分らないと思った。波濤が彼の家庭を避けて横に逸《そ》れるという保証はどこにもなかった。  野田は、出張先から帰った夜は、たいてい食卓について留守中に起った東京の事件を妻から聞くのが習慣だったが、今夜ばかりは何も話題を求めないことにした。うっかり言葉に出すと、芝のマンションで起ったバーのマダム殺しがとび出してこないとも限らなかった。  幸い妻もその話はしなかった。世の人妻たちは、バーの同性に対して偏見に近い嫌悪感をもっている。宗子もその一人に違いなく、その種類《ヽヽ》の女が殺された事件など少しも興味を感じてないらしかった。  それから三日間は何ごともなかった。野田の緊張した気持がややゆるみかけたころ、彼の心臓が不意に外の力で握られるような出来事が起った。  迎えの車で出勤の途中、運転手にいって通りがかりの本屋からその朝に出た週刊誌を買わせたのだった。いつもだと退屈|紛《まぎ》れに読むためだが、今度は例の事件のことが載ってないかと思ったのだ。しかし、週刊誌の締切日が事件の直後だったせいか、何も書かれていなかった。週刊誌は新聞報道のあとを追跡して詳報を読物的に出す。野田にはそれが気がかりだったが、今週は何も出ていなかった。  しかし、その週刊誌の最後にあるカラーページを見たとき、野田は息を呑んだのだった。そのページは毎週のつづきもので「客間拝見」という洋酒会社のPRシリーズだったが、なんとそこにはテーブルを前にして水沼奈津子がクッションに腰かけ、まるい顔をやや傾《かし》げ、眼を細めて笑っているのである。短い活字の組みには「詩と洋酒の女主人」とあった。カラー写真ページは早くから用意するので、当人が殺されても読者の前には堂々と蘇生してお目にかかれるのである。  しかし、野田の肝を冷やしたのは、そんな亡霊のような写真ではなかった。宣伝物の洋酒の黒い瓶は葡萄唐草文様のテーブルクロースの上に格好よく載っているではないか。いや、洋酒の瓶の置き具合などどうでもよい。問題はそのテーブルクロースである。商業写真だから色彩が実によく出ていて焦点も尖鋭であった。カメラの位置がテーブルに近かったせいもあって、白いレースの縁のついたテーブルクロースはベージュの地色に茶色の異国的《エキゾチツク》な葡萄唐草文様を匍《は》わせ、それが手でさわってみたくなるような感触で描き出されていた。  ブリュッセルで買ったあのテーブルクロースだ。──宗子がこの写真を見たらどう思うだろう。日本には来ていない品と聞いている。宗子はそれを誇りにして、いい客が来るときだけ出して、日ごろはしまっているくらいである。それとまったく同じものを、殺されたバーのマダムが持っている。宗子がこれを見たら──  野田は心臓の早鳴りをおぼえながら、この週刊誌だけは金輪際《こんりんざい》、宗子には見せてはならないと思った。幸いなことに宗子は週刊誌がそう好きでなく、あまり買って読むこともなかった。      4  週刊誌の色ページのテーブルクロースに注目したのは野田保男だけではなかった。捜査本部でもこれに注意をむけた。殺された女が写真で微笑していることも捜査員に興味があったが、そんなことより、この立派なテーブル掛を犯行現場では見かけなかったことである。試みに鑑識係が撮影した現場写真をとり出して見ると、その写真では木製テーブルは裸のままで、上には何も掛けてなかった。  もう一度奈津子の部屋が入念に捜索されたが、テーブルクロースはどこからも出てこなかった。捜査本部では念のために「みぬま」のホステスたちにその週刊誌のカラー写真を見せた。もちろん女たちはその前から週刊誌を見ていて話題にしていたが、それは単にママが生きて写っていることの興味からだった。捜査員に指摘されて、あらためてテーブルクロースに眼を凝らすようなありさまだったが、ママの部屋を訪問したことのある女たちは、異口同音にたしかにあの「客間」のテーブルにはこの葡萄唐草のテーブルクロースがかかっていたといった。  ただ、一人だけ──ママの死体を発見したホステスだけは、わたしがあの部屋に入ったときにはこのテーブルクロースは無かった、テーブルの木の上を電燈の光が照らしていたのをはっきりと覚えているから間違いはないと断言した。この証言は鑑識の現場写真とも一致するのである。 「このテーブルクロースはママさんがいつごろ買ったのかね?」捜査員は女たちに訊いた。 「買ったんじゃないわ。だれかの贈り物らしいわ。だれからとはママはいわなかったけれど、日本には来てない品よといってたから、そうだと思うわ。とても素敵なテーブルクロースだもの」  付け睫毛《まつげ》の女たちはいった。 「それは、いつ頃からテーブルにかかるようになったかね?」  アイシャドウの濃い女たちは互いに記憶を確かめ合ったのちに、去年の十月の下旬あたりからだと共同証言をした。 「クリーニング屋にでも出したのかな?」  捜査員がいうと、いちばん若いホステスが長い髪を振っていった。 「あの日のお昼ごろに、わたしがママの部屋に寄ったときは、このテーブルクロースはちゃんとかかっていたわ。もし、クリーニング屋に出したとすると、それからのことだけど」  この報告から捜査本部の幹部はマンションに出入りするクリーニング屋をはじめ都内の洗濯屋全部に問合わせを出させた。マンションに出入りするクリーニング屋はそんな注文を水沼奈津子から受けていないし品も持って帰っていないと真先に返事した。他の同業者も、時間の差はあったが、同じ回答を寄せてきた。  水沼奈津子を殺したのは物盗りではない。部屋は少しも荒されてなく、何も奪られた形跡はなかった。そうすると、殺人犯人はテーブルクロースだけをテーブルから剥いで持って行ったのだろうか。どんなに珍しい品でも、たかだかテーブル掛である。それだけを奪ってゆくわけはなさそうであった。  もし、犯人がテーブル掛一枚をテーブルから剥いで持ち去ったとすると、それは品物の美的価値からではなく、その品で犯人の身元が分るおそれがあったからではあるまいか。犯人はそのために殺人の犯行後、テーブルクロースを持ち去ったのではなかろうか──という推定意見が捜査本部に強く起った。とにかく、捜査員は週刊誌のカラー写真を持って、そういう輸入品を扱う一流専門店のところに行った。  専門店では肉眼でも写真はよく見えるけれど、さらに拡大鏡を出してテーブルクロースを熟視した末に、この品はベルギー製の高級品であって、自分の店では取扱っていないこと、自分の店にもないくらいだから他の店にも無いこと、値段の点はよく分らないがこのくらいに丁寧な刺繍と、この大きさなら日本での小売値は十万円は下るまいといった。捜査員は予想外に高価なのにおどろいた。なお、捜査員はベルギーでのこういう品物の輸出元を聞いた。店主が書いたのはブリュッセルの会社であった。  捜査本部ではブリュッセルの日本大使館宛に週刊誌のカラーページを同封し、テーブルクロース類の輸出元についてこれと同じ品が過去二年間に日本向けに輸出されたかどうか、また日本人旅行者がベルギーで買ったとすれば、どこの店で買ったのか、またその客の宿泊したホテル名と、フロントの名簿で人名が判明すれば人名とパスポートの番号を報らせてほしいと航空便で出した。ホテルでは外国人の宿泊客にパスポートの番号を記入させる。それだけでもこっちで住所氏名が取れる。もっとも品物を買った客が店の店員に泊っている先をいわなかったら役に立たないことだった。  テーブルクロースが思った以上に高価なので、捜査本部の見込みは動揺した。たかだかテーブル掛ぐらいと思っていたのに十万円以上もするというのである。それでは、犯人はこれを狙って強盗に入り、奈津子に騒がれて絞殺したのか。  そうではあるまいという反対意見が出た。いくら高価でも、すでに毎日使用しているテーブル掛一つを狙うであろうか。被害者は、現金十二万円余を紙入に入れて持っていたのに、また宝石類もあるのに、それに犯人はまったく手をつけていないのである。だから、やはり情事のもつれで女を殺した犯人が行きがけにテーブルクロースを持ち去ったとみたほうがいい。──結論は以前の推定通りに落ちついた。  奈津子はその品を人からもらったといって店の女には誰だかいわなかった。あるいはその贈り主が犯人か、犯人でなくとも事件につながる人物ではないかと思われた。あらためて奈津子の交際関係が洗われたが、どうも該当の人物が出てこない。奈津子の男関係は案外に乱れていて、新しく聞込みに出てきた男が三人いたが、現在はもう関係がないことが分った。しかし、まだまだ居そうであった。極力、聞込みに集中した。  しかし、捜査本部では前から目をつけていた相互銀行の外交員を決して捨てたのではなかった。アリバイが依然として成立しない。有力な物証がないというだけで、情況証拠は十分である。本部では銀行員をあくまでも真犯人《ホンボシ》だと睨んでいた。  だが、この相互銀行員とテーブルクロースとは結びつかない。十万円以上という値打ちもさることながら、日本には輸入されていないのだから彼が奈津子にプレゼントできるはずもなかった。  彼が他の者から貰った品を奈津子に贈ったとしたらどうだろう。相互銀行員は、奈津子の機嫌をずいぶん取っていたようであるから、人からの貰いものとすれば考えられぬことではなかった。  テーブルクロースのことを相互銀行員に訊問してみようかという捜査員もいたが、捜査主任はそれを止めさせた。はっきりとした材料もないのに訊くのは拙劣である。そんなものは知らない、といわれたらそれまでである。テーブルクロースは事件と何か関連がありそうだが、いい材料が出るまで訊問は待とうということになった。──あとで思うと、この考えがよかったのである。  駐ベルギー大使館の調査報告が届く前に、そのテーブル掛について、耳よりな情報が入った。  聞込みのなかで、週刊誌のカラーページに出たテーブルクロースとまったく同じものを所持している夫婦を知っているという人が現われたのだった。教えてくれた人は関係がないから省くとして、所持者は大森に住む税理士で、その応接室のテーブルに掛けてあるというのだ。  捜査員は早速その税理士の家を訪ねた。はじめから応接間に通されたので、テーブルクロースをゆっくりと見ることが出来た。大きさも意匠も同じである。白いレースの縁飾りのある葡萄唐草文様はまさに寸分も違わなかった。ただ、布地の地色が違っていた。カラー写真のはベージュ色なのに、ここにあるのは薄桃色であった。  やがて主人が出てきたので捜査員はテーブルクロースの求め先を叮重にたずねた。  主人は、これは家内の姉夫婦が去年ヨーロッパに行ったときにブリュッセルから買ってきてくれたお土産だといった。その時期を訊くと、十月二十日ごろに帰国したという。これは「みぬま」のホステスたちの「テーブルクロースがママの客間に現われたのは去年の十月下旬」といった言葉と時期的に一致していた。捜査員は税理士の義姉夫婦の氏名、職業、住所を教えてもらった。質問の理由は、ほかの事件の参考に託した。  さて、その日の夕方野田保男は帰宅して宗子から、今日の午後に刑事二人が訪ねてきたことを聞いて、眼の前が暗くなった。  ──いよいよ来たのか。とうとう来ないのかと思っていたが、やっぱり現われたのか。  身体が一時に冷たくなったが、いまにも宗子にじっと見詰められそうな気がして、平静を装うのに懸命だった。 「で、何を訊きに来たのだ?」  野田は洋服を脱ぎながら訊いた。宗子はうしろに回って上着、ネクタイ、ワイシャツ、ズボンと一々受けとって、ブラシで軽く払ったり、膝を突いてたたんだりしていた。野田は、妻に顔を見られないで済みそうなので、いくらかほっとした。しかし、気になるのは刑事が何を訊きにきたかである。 「ブリュッセルで買って帰ったテーブルクロースのことですよ」  妻はワイシャツとズボンとを始末しながらいった。声の調子はふだんのままだった。 「あのテーブル掛がどうかしたのか?」  やっぱりそれだったのか。警察も奈津子の「客間」のテーブルクロースを撮った週刊誌のカラー写真に眼をつけたのだ。不安な予感がひとつひとつ的中する。 「はじめに刑事さんは大森の妹の家に行ったのよ。そしたらウチからもらったといったらしいわ。それは本当ですかと刑事さんが訊くので、わたしがその通りだといったら早速そのテーブルクロースを拝見できないかというの。で、しまってあるのを取り出して刑事さんに見せてあげたわ」 「ふうん。それから?」 「そしたら、いつごろ向うに行かれて買って帰られましたかと訊くので、去年の十月十六日にブリュッセルで買い、二十日に帰国しましたといったら、これを何枚買われましたかと訊くのよ」  予想通りであった。 「これと、大森の妹にやったのと二枚だけです、といったら、今度はほんとに二枚だけですか、これと同じものをもう一枚買われたのじゃないですかと訊くのよ」  野田は直接自分が訊問に遇っているような気がして、鳥肌が立った。 「いいえ、二枚だけですよ、主人といっしょにこれを売っている店に行って買ってきたんですから、といったら、刑事さんはまだ納得が出来ないような顔で、その店はブリュッセルの何という名前かとたずねるの。あまりしつこいので腹が立ったから、あの店の包み紙を出してきて、これをあげますといったら、はじめて、どうも、と頭を下げて帰って行ったわ」  警察では実際にブリュッセルのあの店に問合わすかもしれない。 「なぜ、そんなことを刑事が訊きにくるのだろうなア?」  野田は、宗子の反応を知りたかった。 「なんだかよく知らないけど、どこかに事件が起って、それにこれと同じテーブルクロースがからんでいるらしいの。その参考に訊きにきたといってたわ。それ以上詳しいことはいわなかったわ。こっちも問わなかったけれど」  妻は、芝のマンションで殺されたバーのマダムのことなどは知っていないようだった。現在、そのことで亭主が疑われかけていることはもっと知っていない。で、その落ちついた様子は、刑事の失礼な訪問に少し腹を立てている以外は、まったく日常的であった。 「野田という社長の家にあるのは、カラー写真に出ているテーブルクロースと全く同じです。地色もベージュなんです。妹夫婦がもらったのは薄桃色の地色ですが。しかも去年の十月二十日に帰国したというのです」  刑事のこの報告によって捜査本部は検討会を開いた。  野田保男が水沼奈津子にテーブルクロースを与えた可能性は強い。彼の帰国が十月二十日、奈津子の部屋にそのテーブル掛が現われたのがその下旬だ。そうすると野田と奈津子とは関係があったとみなければならないが、これまでの捜査の段階では出てこなかった。出てこなかったが、奈津子は予想以上に男関係があって、その後も二人の男が浮んできたくらいだから、野田が奈津子と親しくしていたという線は十分あり得る。  もし、野田保男が奈津子を殺したとすれば、手がかりになるようなテーブルクロースは持ち去るだろうから、一枚のテーブル掛だけが消えた疑問点は解消する。  問題は、ブリュッセルから持って帰ったそのテーブルクロースが二枚だったと野田の妻が刑事に述べていることである。夫婦でその店に行って二枚買った、一枚は自分の家で使い、一枚は大森の妹夫婦のところに土産としてやったといっている。──捜査員は両家で現物を見ているから員数は合うのである。  奈津子のが野田にもらったテーブル掛だとすると、野田はそれを三枚買っていなければならない。ところが夫といっしょに店に行った妻は二枚だといっている点をどう見たらいいのか。  二つの理由が考えられる。一つは妻が夫に犯行を打ちあけられ、結局は三枚買ったのを二枚ということにして協力したこと、一つは野田が妻には分らないように奈津子に贈るぶんをもう一枚買ったという推測である。  だが、前者の仮定は、あり得ないことではないが少し異常である。後者の場合がずっと自然であった。夫婦は揃ってその店に行き二枚を買った。それは妻の経験だから、妻は確信をもっていえた。嘘をいっているのではない。妻に隠れてあとの一枚を買ったのは夫ではないか。だから彼は、妻を伴わないでもう一度その店に出かけているのではなかろうか。  事実を確認するには、テーブルクロースを買った店に問合わせるほかはなかった。それで本部は、今度は野田の妻が捜査員に提出したブリュッセルの包装紙によって知り得た商店にそのことを訊ねてもらうように、大使館に宛て今度は電報で依頼した。買物の日附も去年の十月十六日と分っている。  それとは別に野田保男の事件発生当日の行動も内密に調べた。一月十七日は野田は大阪のホテルに前日から滞在していて、犯行時刻と思われる午後五時すぎから七時ごろまで食堂で客と会食していることが判った。野田の現場不在の証明は完全であった。  野田は直接の加害者ではない。しかし、奈津子とは関係があったとみられる。現場から消えたテーブルクロースが彼が奈津子に与えたものだとなれば、何らかのかたちで彼は事件に関連があるかもしれない。いまのところ野田と相互銀行員とは関係がないらしいが、まだ捜査面の下に沈澱しているのかも分らなかった。  このとき、その日の五時半ごろに奈津子の部屋の前で彼女と話していたバーのホステスらしい赤い髪の女のことが捜査本部の幹部の口からもう一度出たが、事件に結びつきがあるかどうかは未だに不明だった。むしろ、あの女は奈津子の店に入りたいという話を持ってきていたのではないか、という無関係説が強かった。      5  週刊誌はいろいろなことを記事にするもので、「詩人マダム殺し」事件の発生時刻の夕方五時半ごろに水沼奈津子の部屋を訪ねた一見ホステス風な「赤い髪」の女について想像豊かな書き方をしていた。捜査側でもはっきりとした線が出ないでいるのだから、執筆者は空想力を駆使できる。だが、その記事の読了後は結局、「神秘」な女ということに尽きる。  野田保男は奈津子が殺された事件に関する記事を載せたこういう週刊誌を手あたり次第読んでいた。奈津子が詩人だったという点はどの週刊誌も揶揄気味であって、なかには彼女の詩集の中から一節を引用しているのもあったが、それを冷やかしの対象にしかしてなかった。  引用の詩の一節は野田にそれほど悪いとは思えなかった。むしろロマンチックで、抒情味たっぷりなのだが、作者がバーのマダムなので正当に評価されないのであろう。それと彼女はあまりに恋人の数を持ちすぎた。週刊誌は詩のロマン性を彼女の体験的な男関係に結びつけていたのだった。  男関係が暴露されたことでは、野田は彼女を背信者だとはそれほど思わなくなっていた。むしろその商売の上からやむを得ない事情にあったのだと同情するようになっていた。だが、その客観性には、週刊誌に自分(実名でなくとも、それと分る)が彼女の恋人たちのリストの中に入っていなかったという安堵《あんど》があった。  しかし、野田は完全に不安から解放されたのではなかった。あれから刑事は二度とやってこないし、警察からの問合わせも何もない。捜査側は遠いところに歩き去った感じなのだが、気になることが一つあった。テーブルクロースの一件である。  宗子が刑事に包装紙を渡したことから、警察ではブリュッセルの刺繍品店に売った数の問合わせをしていると思われる。刑事はほかの事件の参考にテーブルクロースを見に来たといったそうだが、奈津子殺しの件だとは分り切っている。警察は奈津子の部屋にあった外国製のテーブルクロースに注目したのだ。げんに週刊誌のカラーページではあのテーブル掛が異彩を放っていた。警察でその品が日本で売ってないと分ると、ベルギーに旅行した人から彼女が贈られたと見当をつけ、その贈り主と彼女との関係を調べはじめるだろう。テーブル掛が彼女の部屋に現われた時期と、ベルギーを回って帰国した男との時期とがだいたい一致すれば、贈り主の候補者は決まってくる。  宗子は自分たちがブリュッセルの店でテーブルクロースを買ったのは去年の十月十六日だったと刑事に明言したそうだから、警察ではそれを手がかりに、あの刺繍品店に問合わせの手続きをとるだろう。  野田は、白い髪の、静かな老婦人を思い浮べた。さまざまな美しい刺繍類をならべた店の中でたった一人、客の相手をしていたマダムである。中世風な石だたみの横丁、重々しい樫の扉、野田はそのドアを二度開けさせたのだ。二度目は単独であった。追加の一枚を買い、このぶんは自分の懇意な人に贈るのだといったら、バラ色の頬の、深いエクボのマダムは、判っています、心得ていますよというように微笑でうなずいた。彼女の英語が、突然、ウイ、ウイ、ムッシュに変ったのも、事情をすぐに呑みこんで思わず出たことだ。過去に秘密な贈り物を妻のある男性からうけた経験があるにちがいない美しい老婦人は、万事を諒解して、ほかの人にはいわないと暗黙に約束したようだった。積極的には口どめしなかったけれど(それは彼に羞恥心があってできなかった)あの約束は守ってくれると思う。  しかし、それは普通の場合であって、日本で起った殺人事件にテーブルクロースの員数が問題になっていると聞けば、二枚はご夫婦の前で、一枚はあとからひとりで見えたムッシュに渡したと答えるのではないか。あの暗黙裡の約束は、そこまで固く、かつ厳重なものではなかった。  野田は、その回答を入手した警察がもう一度刑事を自分のところに寄越すだろうと思った。奥さんがいわれたことと違いますよ、本当は三枚買ったそうじゃありませんか、さあ、あとの一枚は誰にやったんです──刑事は根掘り葉掘り訊くにちがいない。警察捜査特有の執拗さで。  野田はそれを考えると、家庭破壊の大波が、もうすぐやってくるような気がし、惨めな気持に陥った。危機は、いったん遠のいて二度目に襲ってくるほうが、一回だけのよりも衝撃が強いのである。  しかし、野田は、奈津子に与えたテーブルクロースが実は殺人現場から紛失していることなどは知らなかった。彼が知るはずはない。それは捜査本部の秘匿材料であって、真犯人を決定する際の「切り札」であった。だから本部は発表していないのだった。新聞にも週刊誌にもテーブルクロースの件は一行も載っていなかった。  一方、捜査本部ではブリュッセルに打電してから三日目にその店からの回答電報に接した。 ≪昨年十月十六日、当店ニ於テ、オ問合ワセノ品ヲ日本人夫妻ニ売ッタノハ合計二枚ナリ。他ニ日本人客無シ≫  日本大使館を通じての返事はずっと遅れてきたけれど、捜査本部ではこの電報によって野田保男への疑いを完全に解いた。水沼奈津子はぜんぜん別な人間からあのテーブルクロースを貰ったことになったのだ。  ……あのブリュッセルの店の、静かな老婦人は、野田との暗黙の約束を守り通したのだった。よしそれが人殺しに関係があろうとも、愛する女にひそかな贈り物をするやさしい男の気持を彼女は賞《め》でたのだ。たとえ日本の総理大臣からの問合わせであっても、彼女は口を割らないにちがいない。このベルギーの老女の心意気は、当の野田も知らなければ、捜査本部も知らなかった。  ところで、野田はまったく偶然のことから自分の家に不安と危惧の元凶を発見した。  ある日曜日、彼は宗子がデパートに買いものに行っている留守に、着更えの着物の必要が生じて、タンスの抽出しを探した。見当らないので、ほかのタンスや、納戸の押入れの中に入っている木箱など開けて掻きまわした。探しあぐねてぼんやりしているときに、ふと眼が天井板の隙間から出ている新聞紙の端にとまった。  何だろうと思った野田は、脚立を運んできてその上に乗り、天井板を押しあげた。板の一枚は釘がはずれていてすぐに動いた。新聞紙はその上にある包みの格好を現わした。彼はその新聞紙包みをとり出した。軟かい包みである。  中からベージュ色の地に茶色の葡萄唐草文様のテーブルクロースが出たとき、野田は真蒼になった。納戸の押入の天井裏に、この品物を匿《かく》していたのは宗子しかいない。  野田は前に読んだ週刊誌の記事を思い出した。新聞にもちょっと出ていたが、奈津子が殺される前に、彼女をその部屋に訪問した赤い髪の、パンタロンをはいた真赤なコートの女があったという。その女は、目撃者からは後姿だったので顔は分らなかったが、一見してバーのホステスふうだったとあった。その女の訪問が午後五時半だったので、ドアを開いて立話をしていた奈津子は五時半までは生存が確認されている。犯行時間が五時半から、死体発見の七時ごろの間というのはそこから割り出されている。こんなところに奈津子に与えたテーブルクロースがかくされているなら、もしや五時半訪問の赤毛の女は、宗子ではなかったろうか。でなかったら、わが家に奈津子のテーブルクロースが来ているはずはない。  赤い髪は、近ごろのことでカツラが市販されているから、それを頭にかぶせることができる。真赤なコートも、パンタロンも町で買ったのを身につけて宗子は「一見ホステス風」な女になって奈津子の部屋を訪問したのだ。あの日は亭主が大阪に旅行中だったから、妻はひとりでいくらでもその「変装」ができたはずだ。通いのお手伝いの老婆をその日は休ませたのだろう。  宗子は、どうして奈津子の存在を知ったのだろうかと野田は考えた。そうだ、私立探偵社だと気づいた。それよりほかに考えようがない。野田は奈津子のマンションに出かけるときは、専用の車も使わないでタクシーを拾うくらい用心していたのだが、私立探偵社の者だったら、商売だから尾行も張込みもする。こっちが何も気づかないうちにやられていたのだ。  宗子は、その私立探偵社からの素行報告書をなぜ夫に突きつけて難詰しなかったのだろう。どうして黙って、ひとりで夫の浮気の相手のところに交渉に出かけたのだろうか。しかも「変装」までしてである。  宗子はそういう性格なのだ。何もかもひとりでトラブルを片づける。夫の浮気を黙って処理し、あとで亭主の前にそれを報告する性質《たち》なのだ。「変装」したのは、マンションに住む人たちの眼を避けたためか。それとも、うんと若づくりの化粧をして、入店希望のホステスになり済まし、奈津子訪問の口実をつくったのか。  野田は二つの場合を想定した。一つは宗子が奈津子を殺したことだ。いい争いになって嚇《かつ》となり、彼女を絞め殺す。殺したあと、夫の与えたテーブルクロースを剥いで持ち帰る。──だが、これは考えられなかった。いくらなんでも宗子が奈津子を殺すとは思えない。宗子はそれほど逆上する女ではない。第一、奈津子はよく肥えて、体格がいい。宗子は瘠せていて非力だ。宗子には奈津子の激しい抵抗を押えて殺すことはできない。  べつな推定のほうが自然である。──宗子が奈津子に抗議をしたあと、このテーブルクロースは主人があなたにやったものだ、わたしたちはブリュッセルでこれを二枚買ったのだが、主人はもう一枚をこっそりあなた用に買ったとみえる、これは返してもらいます、といって取り戻して帰る。そのあとに来た犯人のために奈津子は殺される。  宗子は殺人事件をその晩のテレビのニュースでも、翌朝の新聞でも知ることができた。おどろいた彼女は、奈津子の部屋から奪ってきたテーブル掛のことで自分が事件に捲きこまれると思い、この納戸の天井裏にそれを匿してしまったのだろう。刑事がテーブル掛の数を聞きに来たときも二枚しか買ってないのを強調するあまりに、ブリュッセルの店の名入り包装紙を刑事に与えたのだ。宗子にすれば警察がそれだけで信用すると思っただろうし、遠いベルギーにまで員数の問合わせをする可能性は考えなかったであろう。また、ブリュッセルに行って同じテーブルクロースを買う日本人旅行者は多いにちがいないから、奈津子の部屋にあったのは別の人からもらったものらしいと警察では結論する。宗子はそう考えたのではなかろうか。  野田は、大阪から帰ったとき宗子が一口もバーのマダム殺しのことを話題にしなかったのを思い出した。あれは興味がなかったからではなく、言葉に出したくなかったのだ。またその後、宗子は刑事がテーブル掛のことで聞きに来たと話したときも、彼女は彼の脱いだ洋服の始末にとりかかっていて、ろくに顔をあげなかった。野田はあのとき、蒼くなった顔が宗子に見られなくていいとほっとしたものだったが、宗子こそ動揺を彼に見せたくなかったので下をむいていたのである。今にしていちいち思い当るのだ。  では、なぜ、宗子は殺人事件と関連して問題となるようなテーブル掛を焼きも捨てもしないで、納戸の天井裏に保存しているのだろうか。それは非常に危険なことではないか。だが、野田はそれを女の性格に帰した。テーブルクロースは日本にない外国製の一級品だ。もし買えるとしても十万円以上はするのである。そんなものをむざむざと灰にしてしまうのは|もったいない《ヽヽヽヽヽヽ》。殺人事件が解決したあと、ゆっくりとそれを取り出して使うつもりではなかったろうか。  もとより野田は、ブリュッセルの白髪婦人が彼との黙契を忠実に守って日本の警察に二枚の数しか回答しなかったのを知るよしもなかった。それで、彼は捜査本部がベルギーからの返事で彼が三枚を買ったという事実を知れば、刑事を寄越すか捜査本部に呼びつけられるかして追及されると思い、天井裏にひそんでいたテーブルクロースを事前に処分することにした。もはや、宗子に奈津子との関係を知られてしまった以上、妻に対する恐怖はなくなっていたが、今度は警察の嫌疑が怕《こわ》くなった。  うかうかすると、殺される直前の奈津子を「変装」で訪問した宗子まで警察に引致されかねなかった。警察では依然として「赤い髪の、一見ホステス風な女」を捜査しているにちがいないのである。  野田は、さらに天井裏を探した。かなりはなれた隅から、古い風呂敷に包んだ赤い髪の新しいカツラを発見したとき、すべてのことが決定的となった。  野田は急いで外出の支度をし、いつも会社に持って行く黒い手提鞄の中にテーブルクロースを押しこんで、通いの手伝いの老婆には奥さんが帰ったら急用が出来たといってくれとことづけ、外に出た。赤毛のカツラのほうはあとで宗子が適当に処分するだろう。  タクシーに乗った彼は、テーブルクロースの捨て場を物色して郊外近い方面に車を走らせたが、日曜日のことで、この方面はかえってマイカーや人が多かった。簡単に捨てられると思ったのに、いざ実行となると、人々の眼に怪しまれるような気がし、容易に鞄から新聞包みのテーブルクロースが出せなかった。  そこで車を都内に引返させたが、こっちのほうがむしろ閑散であった。彼はタクシーを降りてある街をぶらぶらと歩き、適当なゴミ箱を探した。だが、これもいざ捨てるとなると、どこかで人が見ているような気がして、なかなか手が出なかった。  野田は、宗子がこのテーブルクロースを天井裏に匿していた理由が分るような気がした。捨てるには惜しい気持もあったろうが、ひとつには適当な捨て場がなかったのである。どこに捨てても人目があるように宗子も思ったにちがいない。ましてテーブルクロースを燃やすなどしたら怪訝な眼で見られるにきまっている。  野田はやっと閑寂な裏通りに入って、ある家の前に置いてあるゴミ箱の中に新聞包みを投げ入れた。そこをゆっくりとはなれたが、後《あと》も見ずに一目散という心理だった。いまにも後から大声で呼びとめられそうだった。大通りに出て流しのタクシーに乗ったとき、額にうすい汗が出ていた。新聞包みのテーブルクロースは、明日区役所の清掃係がほかのゴミといっしょにトラックにうつして塵埃焼却工場に送られる。そこの巨大なカマドの中で一瞬灰になってしまう。厄介な土産品は、これで永遠に消滅するのだ。──  ……しかし、事実は野田保男の安心を裏切った。ゴミ箱の家の主婦が翌朝、その中に新聞包みが投げ入れられてあるのを見て不審に思い、包みを開けたのだった。出てきたのは、少し汚れてはいるが素晴しいテーブルクロースである。主婦はそれを自分の家で使うつもりでクリーニング屋に出した。  クリーニング屋は、その葡萄唐草文様の刺繍された外国製のテーブルクロースが、ずっと前に警察から問合わせのあった品だというのを憶えていた。クリーニング屋は警察に届け出た。  捜査本部では、洗濯をたのんだ主婦に事情を訊き、だれかがその家のゴミ箱にテーブル掛を捨てたのだと知った。  週刊誌のカラー写真との照合や、「みぬま」の女たちの確言もあって、その刺繍テーブルクロースが、間違いなく殺された水沼奈津子の「客間」にかかっていたのと同一品だと決定した。いったい、だれがこのもったいない外国製の高級品を他家のゴミ箱などに捨てたのか。  捜査本部は、その行為を野田保男のせいにはしなかった。なぜなら、ブリュッセルの刺繍品店の回答では、野田に売ったのは二枚であって、三枚ではなかったから。  本部の推定では、このテーブルクロースは水沼奈津子が誰だか分らないが別な男から贈られたものである、そして奈津子は、自分にふりかかるかなしい運命の前に訪問した赤毛のホステスふうな女にねだられて譲るか売ったかしたのだとみた。銀座のバーのホステス引抜き合戦は激甚《げきじん》で、その入店に当っては「支度金」を四、五十万円くらい出す経営者もあるというくらいだから、時価十万円くらいのテーブルクロースでいいホステスが得られるなら、奈津子はそれを譲っても惜しくはなかったのだ、というのが推定の結論であった。  その筋道を立てるとこうなる。──赤毛のホステスがテーブルクロースをもらって、奈津子の部屋から帰ったあと、男がやってきた。多分は愛欲関係のもつれから男は奈津子を絞殺した。そのときにはテーブルには、すでに葡萄唐草文様のテーブル掛はなかったはずだ。鑑識が撮った現場写真のようにテーブルは裸であった。  奈津子と関係のあった相互銀行の外交係は、ほかに証拠が上ってそのころ逮捕されていたが、それが強力な証拠でなかったので、当人の否認がつづき、捜査本部ではてこずっていた。  発見された奈津子のテーブルクロースが捜査主任の「切り札」に活用されたのはこのときだった。その前には、テーブル掛のことを相互銀行員には何もいってなかったのだ。  捜査主任は週刊誌の「客間拝見」のカラー写真を容疑者に見せた。 「ここに写っているテーブル掛を君は知っているね?」 「はい、知っています。いつも奈津子さんの部屋のテーブルにかかっていました」 「君は、この部屋で奈津子さんと話すときは、このテーブルの前のイスにかけるのか?」 「そうです」 「それじゃ、見馴れているはずだね。ところで、君が最後に奈津子さんとこの部屋で話したのはいつかね?」 「それは何度も申上げる通り、彼女が殺された一月十七日の午後二時ごろでした」 「そうだったな。そのとき、このテーブルクロースはテーブルにかかっていたかね?」  相互銀行員の顔に躊躇《ためら》いの表情が起った。彼は主任のこの質問が罠ではないかと警戒したらしかった。だが、彼は小細工を弄するよりも、|正直に見たまま《ヽヽヽヽヽヽヽ》をいったほうが安全だと判断したらしく、やや間を置いて答えた。 「そのときは、テーブルには何もかかっていませんでした」 「この写真にあるテーブルクロースは無かったのかね?」 「テーブルクロースはありませんでした。テーブルのままでした」 「いつもかかっているテーブルクロースがそのときなかったというのはおかしいね。君はそれを奈津子さんに訊かなかったかね?」 「はあ……」  容疑者は、主任の顔にちらりと眼を走らせ、ここで余計な一言を加えた。 「ぼくも変だと思って訊いたところ、奈津子は、テーブル掛がだいぶん汚れたから洗濯屋に出しているといっていました」 「ふむ。それが殺される十七日の午後二時ごろの訪問のときだったんだね?」 「そうです」 「君はとうとう犯行をいったね。……そのテーブルクロースは午後五時半までは奈津子さんのテーブルにかかっていたんだよ。それからあとはテーブルから無くなっていた。つまり、君が、テーブルクロースは無かった、というのは、君が奈津子さんの部屋に午後五時半以後に行っているからだ」  もちろん、これは警察のカマである。五時半に赤い髪のホステスがテーブル掛を持ち去ったというのは、あくまでも警察の推定であって、事実の確認はなかったから。  ──葡萄唐草文様の刺繍テーブルクロースが犯人を自供させたことなど、野田夫婦が知るはずはなかった。 [#改ページ]    神の里事件      1  平野部を走って一時間以上にはなる。  六月の終りだが曇った天気の、妙にうすら寒い日だった。梅雨《つゆ》は細い雨と蒸し暑いのが普通だが、今年は雨があまり降らない。連日鉛色の雲が居すわって冷たい空気を隙間風のように送ってきている。東京もそうだがこっちに来ても同じだった。  平野部では田植えが行なわれていた。雨がなくとも川の水があるからだろう。その加古川はバスの窓にたえず附き添っている。町に出たり、丘があったりして、ちょっとの間は消えるが、すぐその鈍い光の川面《かわも》を気づかわしげに現わす。  バスの乗客は十二、三人である。途中の停留所で乗降があったが、いまはこれだけである。引地新六を除いてはみんな土地の者らしい。それでも出発点から乗った者はほかに三人はいた。乗客は話をしないで居睡ったように黙っている。外も見ない。もっとも単調な田圃や畑では眺めても仕方がない。  山地になった。森や林には新緑があるはずだが曇った空なので発色がない。遠い山は上半分が雲にかくれている。道は村落のあるところだけがきれいに舗装されている。上り坂がつづく。どこまで行っても同じような風景である。 「みなさま。このバスは加古川を出まして一時間半になります。終点青垣町まではあと一時間と三十分を要します。それより先の福知山、または和田山、豊岡、城崎《きのさき》方面に行かれる方は青垣からそれぞれの路線にお乗換えを願います。毎度当社のバスを御利用下さいましてありがとうございます」  びっくりして引地は前を見た。すでに加古川からこのバスに乗ったときにバスガールがいたのを意外に思った。いまは地方もほとんどワンマン・バスである。  バスガールは小柄な身体だが、色が白い、ふっくらとした顔をしている。十九か二十くらいで、なかなか可愛い感じの女である。制服はエアホステスを真似て紺色のスーツにミニスカート、同色の帽子を短い髪の頭に斜にのせている。  引地は外の風景に飽くと、運転席の横に斜めにかけているそのバスガールをちらちらと眺めていた。外の風景に飽くから眼は自然とそうなる。彼女はときどき運転手と話を交わすが、たいてい黙って前の方を見ている。可愛い顔でも無愛想なバスガールがいる。その子もそうかと思っていたが、途中客が降りたり乗ったりするときは親切である。老人や子供の世話もやく。  一回キップを改めにこっちに来ただけで定位置に腰かけたままだった。距離はあるが横むきにミニから出た膝や脚を眺めた。べつに淫《みだ》らな気持からではない。  その彼女がイスから起ってマイクでそういったのでおどろいたのだが、なるほど田舎のバスはまだ乗客へのサービス精神が残っていると感心した。ところがアナウンスはそれで終らなかった。 「みなさま。こういう景色ではさぞご退屈でございましょう。これよりこの沿線の名所旧蹟をご案内させていただきます」  バスガールは白い手袋でマイクを口の前に握りながらこっちを向き軽く一礼する。こんなサービスがあろうとはまったくもって予期しなかった。彼は彼女がマイクの前で口を開くのを待った。きれいな、澄んだ声なのである。 「とは申しましても、このような山の中、名所旧蹟とてはございませんが、此処は播磨《はりま》風土記にも出ている古い土地でございます。ご退屈しのぎにその伝説をご案内させていただきます」  観光案内のバスガイドのような唱う調子ではないが、韻律的な抑揚はあった。それに関西訛の柔かい調子《トーン》がある。 「みなさま。あと十分いたしますと西脇市に入ります。西脇も播磨風土記に出て参ります。風土記は和銅六年、今よりおよそ千二百六十年も前、奈良の朝廷より国々の土地のいわれや名産を記してさし出せと命じられたものと聞いております。この播磨風土記には、もうそのころから、それはそれは旧い話がいろいろと載っております」  一段を終るごとに間《ま》をおくのも案内記の暗誦と共に馴れている。 「昔、この辺を都麻《つま》の里と申しました。その由来《いわれ》はこうでございます。大昔、この北のあたりで播磨と丹波の国境《くにざかい》となっておりました。あるとき、播磨の女国王がここに来て井戸の水を汲んで飲み、此の水ウマシ、と申しました。ウマシがつづまってツマと土地の名前になったそうでございます。いまでもこのへんの湧き水はたいへんおいしゅうございます」  土地の乗客にこんな説明をするわけはない。バスガールは自分を意識しているように引地には思えた。旅行の支度できているのでも察しられるし、出発地で乗ったキップも改めて彼女は行先を知っていた。ほかに土地者ではないらしい三人もいっしょに外来者だと考えているのかも分らなかった。  西脇の町で乗降客があり彼女の説明は中断されたが、再び山地の上りになるとつづきがあった。加古川は支流の杉原川となって細まるが、彎曲《わんきよく》しているので右や左の窓に移って見え隠《かく》れした。 「みなさま。ごらんの通り山ばかりの土地でございます。それでも大昔は住みよい処だったとみえ、ヒカミトメノ命《みこと》というそれは美しい女神さまが居られました。それを聞かれたサヌキヒコノ神が四国の讃岐からやってこられ、ヒカミトメノ命が聞きしにまさる美女だったので、さっそくにもプロポーズされました。ところがヒカミトメノ命は、わたしはイヤですとお断わりになりました。きっとサヌキヒコノ神に魅力がなかったからでしょう。ところがサヌキヒコノ神はなかなかのご執心で、どうしてもあなたと結婚したいと強引に申されました。ヒカミトメノ命は相手があんまりしつこいので、どうしてそんな無理をいうの、さあ、早くお帰り、とけんもほろろに申され、タケイワノ命を雇って相手の軍勢と闘わさせました。サヌキヒコノ神の軍勢が負けたので、サヌキヒコノ神はすごすごと引きあげながらも、ああ、なんとわしは弱い力しかないのかと泣かれました。この言葉は古語で、我《あ》は甚《いた》く怯《つたな》きも、というので、それからこの辺が都太岐《つたき》という地名になったそうでございます」  普通なら乗客が微笑するところだが、土地の者が大半なので無表情である。よそ者らしい三人の男はくたびれたように眼を閉じている。引地は眼を動かしてバスガールにかすかにうなずいた。自分目当に説明してくれているようなので、何か応えなければ悪い気がする。  運転手は黙々とハンドルを切っている。山はいよいよ深い。ほとんどが杉である。川ぶちが崖になっている。 「皆さま。このあたりは昔は荒田の里と申しました。大昔、ここにいます神、名はミチヌシヒメ、大神の神意に仕えておられましたが、あるとき、村に父親なくして子を生んだ娘がおりました。そのころは自由恋愛でしたから、娘もどの恋人が子の父親か分りませんでした。そこでミチヌシヒメが神意を伺うために、田七町《たななところ》に七日七夜《なぬかななよ》の間に稲をみのらせ、酒をつくってもろもろの神たちを集め、その子に酒を捧げさせたところ、その子はその中の一人の男神にまっ先に酒をむけてすすめました。それで知らぬ顔をしている父親が分りました。のちに役目のすんだその田は荒れました。それで荒田の村と名づけたそうでございます」  乗客の表情に反応はない。こうなると引地もマイクを握っている彼女から逃げられなくなった。三カ月前にこの路線のバスに乗った石田武夫もこのガイドを聞いたのであろうか。それはこのバスガールだったのだろうか。あるいは違っていたろうか。違っていても同じバス会社だから、ほかのバスガールの説明を聞いたにちがいない。殺される前の石田武夫がやはりいまの自分と同じ立場で他の乗客に代ってガイドの聞き役を引きうけていたかと思うと、彼の有難迷惑の顔つきが浮んでくる。 「皆さま。左手の窓をごらんくださいませ」  突然、バスガールは一方の白い手袋を左側につき出す。 「うすぼんやりとしか見えませんが、はるか彼方の二つ峯の山が袁布《おふ》山でございます。大昔、宗像《むなかた》の女神オキツシマヒメノ命、伊和の大神の御子《みこ》を妊《はら》まして、筑紫《つくし》からこの山に到《いた》り来ましてのたまいしく、我が産むべき時|訖《お》うとのりたまいしき。それで袁布山と申すのでございます」  引地がおどろいたのは、これまでの口訳的な説明調のなかに急に原文らしいものが入っただけでなく、その原文のところがいかにも荘重に、まるでそこだけが祝詞《のりと》でもあるかのように奏上調になったからだ。その調子もひどく堂に入っていた。  鍛冶屋というのはちょっとした町で七人の乗客が降りた。よそから来た三人もここでバスを捨てた。ここは西脇からの鉄道支線鍛冶屋線の終点でもある。土地の人が五人乗ったので、旅行者は引地一人となる。川は左窓に変った。せまい平地がひらけている。その背後は段丘だがすぐ高い山につづいていた。その山裾に沿って曲ると川はまた右に移る。左の窓にも屹立《きつりつ》した高山があり、杉の密林があった。 「皆さま。この川は杉原川といい、一名荒田川とも名がつき、杉原谷、松井庄、中村、日野の四村にわたって十里、津万村から加古川にと入ります。この渓谷杉原谷は深い深い杉林になっております。ここの山中から但馬《たじま》、丹後に通ずる峠を杉原越と申します」  もはや彼女の説明は引地ひとりを目ざしていることは確実である。思うに彼女はさきほどから自分のガイドを熱心に聞いてくれている東京からの乗客に最後までサービスするつもりであるらしかった。 「皆さま。この近くに蔭山の里がございます。昔、応神天皇のお冠がこの山に落ちましたが、お冠は古語で御蔭《みかげ》と申しましたので蔭山の名がついたそうでございます。またその附近を八千軍《やちぐさ》というのは、大昔、アメノヒボコノ命の軍勢八千人から、付けられた名だそうでございます」  播磨風土記をこくめいに説明したところで、引地以外にはだれも聞く乗客はいなかった。雲が厚くなり日は昏《くら》く、肌寒さはいよいよ増した。 「皆さま」  バスガールは車内の惰《だ》気を醒《さ》ますように、それとも引地の注意を惹くかのように一段と声を大きくし、左の窓に白い手袋の先をさし出した。 「皆さま。さきほどから御案内申上げているように、このあたりは神々のおわしました尊い里でございます。なかでも神山は聖地でございます。あいにくとここからは拝めませんが、この杉原谷の|千ケ峰《せんがみね》の頂上は石座《いわくら》の神山とも申し上げます。そこには正方形の箱のような巨石があり、巨石は五個の箱を積み上げたる形状《かたち》と申します。風土記に……石座の神山というは、此の山、石を戴く。またトヨホノ命の神|在《いま》す、故《かれ》、石座《いわくら》の神山という……とございます。イワクラは神の御霊《みたま》の憑《よ》り坐《ま》す霊域でございます」  バスガールは風土記の原文の部分を祝詞奏上調にうたい上げる。思いなしか前よりもいっそう荘重味を加えて響いた。  持参の地図によると、岩座《いわくら》神のある千ケ峰というのは千メートル以上の高い山で、この山脉がずっと北の福知山あたりまで稜線をじぐざぐさせながら伸びている。そうしてこのバスの終点である青垣町に到る道路というのは、千ケ峰の山脉と妙見山・舟坂山の山塊との間に落ちこんだ渓谷であることを示していた。つまりこの南北に縦長の狭隘《きようあい》な深い山峡は杉原川によってできたものであり、バス道路はその渓流のふちにへばりついた糸であった。  それでも左窓が少し展《ひら》けた田畑になったと思うと、バスはたった一人の老婆しか待っていない的場という棒杭の標識が立っている停留所に停った。そこから眺めると畑は二つの山裾の間に入りこんでいて、だいぶん農家も集まっている。  バスが動き出して十分もすると、また耕地が少しひらけて両方の山裾に集落がいくつか鳥の群のようにかたまっていた。  棒杭の停留所の名が「箸原《はしはら》」と見えたので引地は席を起った。バスはとまった。 「どうもありがとう」  引地はキップをバスガールに渡して礼をいった。 「とてもていねいなガイドで愉しかったですよ。ああいうこと、バス会社で教わったの?」  彼女は白い顔をちょっとうつむかせ、眼もとを赤くしていった。 「いいえ。半分はわたくしがつくっていいました」  バスは彼女がドアを閉めたのを合図に、糸のような路をまた走り出した。      2  杉原川にかかった橋を渡って引地は東の道に歩いた。妙見山は南に過ぎ、正面は篠ケ峰という地図の知識では八二七メートルの山がそびえている。その麓の小さな扇状台地が道の行きどまりである。正確にいうと行きどまりが鳥居まがいの黒門のある石段であった。橋から歩いて七、八分、一キロもあろうか、道は農家がならんでいるが、黒門に近づくにつれ表を改造して飲食店とも食堂ともつかぬ小さな店が二つあった。なるほどこれはちょっとした門前町だわいと引地は思った。  黒門はいかつい構えで、横木が二重になっているのは神社の鳥居とそっくりだが、それに七五三繩《しめなわ》が張ってある。黒門の右柱には「豊道教本部」という檜《ひのき》板に墨書した大看板が下っていた。板は黒くなっているが、その楷書体の字は離れていても読める。石段を上ると五百坪ばかりの広場で正面に入母屋破風《いりもやはふ》造りの建物があった。  広場は梅や桜が松の間に植えこんであって社苑めかしてある。引地が破風造りの真下にすすむと階《きざはし》五、六段の上の腰高障子の八枚がぴったりと閉じられてあった。障子の左右は両|角《かど》まで柱間に一枚ずつの蔀《しとみ》が入り、これが両横側に回っている。寺院でもなく神社でもない、いわば神仏|混淆《こんこう》の奇妙な合体造りである。擬宝珠《ぎぼし》のついた階の下の横には、そこだけが白砂を円形にしつらえて「豊道教拝殿」と書かれた檜板の立札が立つ。障子の閉まった本殿の中には音もなく、柏手も、人の摺り足の音も聞えぬ。  引地は建物の横手を廻る。奥に接したところに幅のせまい神社式の本殿がある。屋根には千木《ちぎ》も鰹木もないが完全な神社建築で、拝殿が寺院ともつかぬ形式だから二つの接続は権現造りと似ている。  そこから裏手に出て引地は右側の摂社を見て歩いた。小祠が三つならんでいる。月読《つくよみ》神社、住吉神社、宗像神社。摂社は雨ざらしである。その裏は山の斜面で杉林に蔽われ、森厳として神道の建物に申し分のない環境だった。  本殿の裏手を回って左手に足を移した。裏山に小径が見える。入口に立札が立ち「宝物殿」とある。絵馬形に札も支柱の棒も樫である。墨書の文字はそう下手でない。立札はかなり古い。  あたりを見回したが人声もせず、人影もなかった。寂然としている。神々の里の、社《やしろ》の域内に鎮《しずま》ります神器の高倉を拝《おろが》みまつるのに何の遠慮があろうかと引地は歩三十にも足らぬ小径を上った。頭上からは杉の枝が重たげに垂れ下り両横には垂直の褐色の幹が暗いくらいに立ちならんでいる。うすら寒い曇り日の、林の奥はさらに暗い。  近くに渓流があるらしく水音がする。相当に激しい流れらしいが、杉木立にかくれて此処からは見えぬ。  宝物殿は厚いコンクリートで、表は観音開きの鉄の扉が閉じ、重々しく錠前がかけてあった。五坪くらいかと思われるが、そのかたちは校倉《あぜくら》に擬してある。ちかごろはビルまがいの宝蔵が諸国の寺に建っているから異としないが、播磨風土記の郷《さと》なら風化した木造の古色があってよさそうなものである。繞《めぐ》らした玉垣に沿って回ったが、もちろん裏口などあろうわけはなく、あれば此処で浮世の完全犯罪など起らぬ。厚さ二十センチ近くもある鉄筋コンクリートは建てて十年は経っていようが、色は褪《さ》めても罅《ひび》割れ一つもない。もとに戻ってもう一度正面の鉄扉に挿した朱色の錠を見つめたが、これはやはり土蔵の錠前と変らない。もう一度「宝物殿」と書いたいかめしい立札を眺める。  宝物殿の中には御神器が入っている。宝鏡というが、どのような形でどのような色をしているかは分らぬ。紀略釈記、小右記などに拠って賢所《かしこどころ》の神鏡を伴信友という男が想像し奉るに、円規《まろく》して柄《つか》ある御鏡である、そは神代巻に天岩戸より御鏡を出《いだ》すとき頭に瑕《きず》が付き今|猶《なお》存すとあるからには鏡の柄を下にして、その上方を云える文なるべしと云うている。これは栗田寛博士の「神器考証」にある。わが国古墳より出土する漢・三国・六朝時代鏡はすべて円鏡である。鏡背面の装飾となっている肉彫の文様によって、素文鏡・多紐細文鏡・重圏文鏡・内行花文鏡・神獣鏡などと区別しているがことごとく円い。|※[#「にんべん+方」、unicode4eff]製《ぼうせい》鏡(中国鏡に模した和製鏡)ももちろん同じである。八咫鏡《やたのかがみ》というので八稜鏡になぞらえるものがあるが、八稜鏡は唐《とう》の鏡であって神代の宝鏡とするには年代がはるかに下る。それは聖武天皇御物が納めた正倉院を見ても分る。土埴《はにわ》の巫女《みこ》らしい像が腰に鈴鏡を携えているのがあるので鈴鏡と思うものがあるかもしれぬが、鈴鏡の鈴は七個である。「円規《まろく》して柄《つか》ある鏡」は柄鏡であって室町時代から現われた婦人の化粧品か調度である。畏《おそ》れ多いことながらなんとも心得がたい。  ──ところが、この「豊道教」の宝物殿にある御鏡は、宮中の賢所に奉祀してある神鏡よりも神代のものと教団側ではいっている。戦後になって不敬罪は除かれたが、さりとて不埓《ふらち》なことをいいふらすものである。皇室の神器よりもこっちの神宝が神代のものというのは、暗に皇室のが偽物で豊道教のが真物だと宣言しているにひとしい。  引地は五坪たらずの風情のないコンクリート造りの土蔵としかいいようのない宝物殿の印象が、もとに足を戻しても眼から消えなかった。あの中に神鏡の宝物が秘蔵されているとはとうてい信じられない。しかも豊道教は、神器を奉じて伊勢大神宮の神威の上に出ようと宣伝している。「豊」とは豊玉比売尊《とよたまひめのみこと》を天照大御神《あまてらすおおみかみ》の同格神とみなし、その御名の一字をとって「豊の道」、すなわち「皇道」であるところの神惟《かむながら》の教えの道を顕現するという。  全国の信者一万人とも二万人とも称し、信者代表には旧華族や政財界の有名人士が名を連ねている。これはと思うような学者が顧問に名を出す。  しかし、これは戦後に出てきた新興宗教ではない。創立は大正の初め。初代教祖は伊井|百世《ももよ》という女子であったが、現在は五代目を襲名した二十八歳の未婚の女性が教祖になっている。教義は、真の皇祖であらせられる豊玉比売尊の神訓を信奉すれば、無病息災、家内幸福、商売繁栄、立身出世はたちどころであり、国家鎮護の世直し大神であるというにある。  教祖の下に教務総統一人を置く。教務総統は教祖を補佐し、その教示に従って教団全体の任務を総括する。現在は青麻《あおま》紀元という四十歳すぎの男だという。  教祖は神前に祈念を凝らしている間はなに人も近づけない。神憑りは三日三晩にわたる。その間に神示が彼女に霊告される。霊告は教務総統が直接に聞くのではない。教務総統は教団の行政を管掌する俗界の人間だからである。されば神と人との間には、神示を伝える媒体的な存在が必要である。このときは教務総統は衣を着更え、教祖の侍者と人格が変る。教祖は神霊降憑の間、本殿の一間に閉じこもっているから、侍者たる彼は教祖の恍惚状態の舌先より発せられる霊告を聞きとって奉書に墨書する。  侍者はさらには教祖の言を外の教団職員に伝えて用を弁じさせ、さらに三度の食事を教祖に献ずる。教祖は女王|卑弥呼《ひみこ》のごときものであろう。すると教務総統の青麻紀元は倭人伝にいう「男弟」に当り、侍者に人格が変ると「唯々男子一人有り、飲食を給し、辞を伝え、居処に出入す」る役となるわけである。──しかるに、青麻紀元はこの世になく三カ月前不慮のことあって既に昇天している。  引地は機《はた》織りの鳴るのを聞いた。空耳かと思ったが、たしかに、ぎい、ばたん、ぎい、ばたんと音が聞えている。百姓家でもあるかと思ってあたりを見回したが、そういうものは眼に入らない。背後の峨々《がが》たる山塊が密林と共に落ちなだれた裾がこの境内である。杉、松、樫《かし》、楢《なら》などのすべて目出度《めでた》ずくめの常緑樹が葉をひろげた蔭に甍《いらか》の端が見えた。音はそこから伝わってくる。  はじめは忌服屋《いみはたや》で祭神が機を織っていなさるかと思った。ここの祭神はトヨタマヒメノ尊、アマテラス大御神《おおみかみ》と同格神だと教義でいっているそうだから、服屋《はたや》があっても神御衣《かみみそ》が織られてもふしぎではない。甍の見えるほうへ林の下をくぐると、そこはかなり大きな建物の裏側であった。その規模からいって教団の社務庁のようなところらしい。裏は建物が凸字《とつじ》形に突き出ていて、櫺子《れんじ》窓がはまっている。引地が窓からのぞくと二十六、七くらいの引きつめ髪の女が服《はた》織り機の前に腰かけてしきりと舟形の梭《ひ》を操っていた。  忌服屋は倉庫のように殺風景で、うす暗い。したがって女の横顔は白い。着物は木綿の縞である。織っているのも同じ柄模様であった。引地はこれが教祖の伊井百世だと直感した。こっちが窓からのぞいても教祖は気がつかないのか見返りもしない。それとも服織りの間は余人を無視しているのかも分らぬ。その傲慢さに引地は窓を敲《たた》きたくなった。天《あめ》の斑駒《ふちこま》を逆剥《さかは》ぎに剥ぎて堕《おと》し入れたスサノオの気持が分らなくもない。「天《あめ》の服織女《はたおりめ》見驚きて、梭《ひ》に蔭上《ほと》を衝《つ》きて死にき」と古事記はいう。      3  引地は鍛冶屋の町に戻って駅前の「但馬屋」という旅館に入った。帰りのバスは別の車であった。ワンマン・カーでバスガールは乗っていない。ガイドをしてくれた女は終点の青垣町で休憩しているのかもしれぬ。それとも青垣か加古川に住んでいるのかも分らない。  六月半ばでも山峡の暮れは早い。ことに曇り日だから六時近くで暗くなった。宿はもちろん古かった。せまい床の間に樵人帰路図の水墨画が懸かっている。田舎回りの画家が描いたように想像できて風情があった。  夕食の膳は山菜と鮎である。ヤマメの焼いたのもある。色の悪いマグロの刺身には箸を遠ざけた。酒がうまい。眼が小さくて背の低いお文さんという女中が給仕をしてくれた。相手の気持をほぐす話のはじまりはやはりバスガールからである。もっとも引地には興味もあった。 「それは伊井千代さんですよ。教祖さまの従妹はんです」  お文さんは即座にいった。 「豊道教の教祖の従妹?」  引地はお文さんに顔を上げた。播磨風土記の暗誦と祝詞奏上調とがすぐに思い合わされた。 「そうです、どことなく似てなさるでしょう?」  お文さんは小さな唇から丈夫そうな歯を見せた。 「いや、教祖はまだはっきり見たわけではないが……」  忌服屋での横顔を拝んだだけではよく判らなかった。 「教祖の従妹なのにどうしてバスガールなどしているのかね? いや、バスガールも悪いとはいわないが、教祖関係の仕事もありそうなのに」 「そっちのほうもやってはりますわ。朝の御奉仕にはちゃんとおつとめになってはりますし、非番の日やとか、月並《つきなみ》祭には会社を休んで神前にご奉仕しやはります」 「勤めというのは何かね?」 「巫女《みこ》ですわ」 「巫女?」 「へえ。出雲大社や春日神社にいやはりますやろ。白い着物をきて緋の袴をはいて」 「ああ、あれ」  エアホステス風の紺の制服と白衣とが引地の中ですぐには一致しない。ミニと緋の裾長袴も離れていた。だが、彼女の祝詞調から両方の早変りが次第に納得して考えられてきた。 「どうして毎日その巫女になっていないのかなあ」 「都会の大きなお宮さんと違うてそないに参拝者もあらへんし、そう忙しくはないのんですわ。そやから千代さんは遊んでてもいややからいうて日ごろはバス会社に出てはるんですの」  お文さんは標準語になったり関西弁になったりした。  豊道教もここが本部だから引地はもう少し参拝者があると思っていたのに少し意外であった。もっともこんな山の中では足場が悪いが、信仰は別のものであろう。ほかの地方からどのくらい信徒がくるかとお文さんに訊くと、毎日はなく三日に二人か三人という。それなら従妹が毎日緋の袴で坐っている必要はない。しかし、月一度の月並祭だと百人ぐらいは集まる。地方からの信徒もあるが、この一帯の村の者も参拝するという。村民の年輩者の大半は豊道教初代教祖以来の信徒である。豊道教の歴史はかなり古い。とくにこのごろはこの土地も過疎地帯となり年寄りが残されたから、近隣の村の者のほとんどが信徒といっていいとお文さんは説明した。  引地は、豊道教の宝物殿に起った殺人事件のことを聞き出すつもりで、お文さんからそのきっかけを狙っているうち、階下から呼ばれて彼女は起って行った。ことがことだけにこれは上手に話をもってゆかなければならぬ。  石田武夫はなぜに教務総統青麻紀元と共に殺されなければならなかったのか。豊道教の内部では石田は神罰を受けたといっているらしい。  石田がこの「神境」を訪れる前に、引地は彼の話を直接に聞いたことがある。ほうぼうの雑誌に実名、匿名または無署名でいわゆる社会ダネを書いている石田は、この豊道教の神鏡探険を思い立ったのだ。しかし、単に興味本位とはいえぬ。それには石田なりの拠りどころがあった。次第はこうである。──  東国のほうである。県や町名は分っているが関係がないから明記することはない。戦前の内務省警保局の報告資料には出ている。その「疑似神道」の教団の名前をかりに「高産霊教」としておこう。  高産霊教では、その教会邸内に神殿を設けこれを皇祖皇大神宮と僭称《せんしよう》し、多数の古器、古文書類を蒐集または偽造してこれを同神宮の御神宝なりと吹聴し、これを一般の参拝者の閲覧に供して布教の便法となしてきた。その間皇大神宮の由緒《ゆいしよ》または御神宝の来歴などを説明するに当り、あるいは三種の神器に関する無稽《むけい》の妄説を樹てて、神宮または神祠(熱田神宮)の神聖尊厳を冒涜《ぼうとく》し奉り、又は妄《みだ》りにわが国の上古神代における神話史実を創作|捏造《ねつぞう》して、畏《かしこ》くも皇統の神聖を疑わしめ、皇位の序列に紛淆《ふんこう》を来《きた》し奉るが如き所説を流布《るふ》する等、恐懼《きようく》し奉るべき不敬の所為ありたるため、教主外四名を不敬罪に容疑して検挙し、右の者を取調べた結果、地方検事局に送致した。しかして検事局では被疑者らを不敬罪によって起訴、予審に付した。 「高産霊教」は明治三十五年に教主らが自ら創作僭称せる「皇祖皇大神宮」を自宅内に祭祀したのにはじまる。教主が自ら吹聴せるところを摘記すれば「自分らが祀《まつ》る皇祖皇大神宮は元|天神人祖一神宮《あまつかみひとつかみひとつたましいのみたまや》と称し、教主は祖先は古来皇祖皇大神宮の神官として同神宮の御神宝を守護し来ったが、教主の約十数代前の先祖が職を失うに至って、皇祖皇大神宮もまた荒廃に帰して、わずかにその御神宝のみが教主の家に秘蔵伝承して今日に及んだ。そうして教主は祖父よりこの神宝を伝承し、その遺言に従いこれをふたたび世に出し、よって皇祖皇大神宮の復興を図らんとするものである」云々と吹聴しつつあった。  しかるに折からの国家主義思想|横溢《おういつ》して国体明徴等の問題がさかんに論議せられ、国史とくに神代史等の研究がさかんに行なわれるに至ると、教主は上述の御神宝をあたかも我が国の上古神代史の秘奥を解く唯一の鍵なるが如くに吹聴して斯道《しどう》の名士誘引に努め、その結果軍部其他における一部好事家の来往が次第に頻繁となると、さらにこれを自教宣伝の具に供し教勢の発展に努めて今日に及んだ。信徒は概数三千余を擁するものの如くである。  同教の具体的事犯内容は相当複雑多岐に亙るが、その骨子は大体次のようである。  教主は明治二十八年ごろから同三十六年ごろの間に京都鞍馬山および同人の現住所等に於て、石塊に神代文字を以て同人の所謂《いわゆる》神代皇祖神の御神名を彫刻したもの八十個を作製し、之を「神代の各天皇の御遺骨を以て作製した神体神骨にして皇祖皇大神宮の御神体たるものである」云々と吹聴し、さらにその尊厳を吹聴するために「伊勢神宮の御神体は崇神《すじん》天皇の御代皇祖皇大神宮の御神体たる前記神体神骨のうち一体を笠縫《かさぬい》(内宮《ないくう》)に、また一体を丹波元伊勢(外宮《げくう》)に奉遷したるもの」とし、以て畏くも御神体は同人が祭祀する皇祖皇大神宮の分体であるかのように冒涜した。  さらに県下在住の鋳物師に径八寸厚さ八分の青銅製古代神鏡類似のもの二面を製作せしめ、之を「天疎日向津比売天皇(アマサカルヒムカツノヒメスメラミコト=天照大御神)が皇祖の神勅により天真浦命《あめのまうらのみこと》に命じヒヒイロガネを以て御製作の上、皇祖皇大神宮に祭祀し給える宝鏡であって、伊勢神宮に奉祀する三種の神器の一つである八咫鏡は天疎日向津比売天皇が御常用のため、天真浦命に命じ、クロカネ(鉄)を以て御製作あらせられたるものである」と称し、よって「伊勢神宮に奉祀する御神鏡は真に皇位継承の象徴たる神器ではない」旨の荒唐無稽な所説をなして、畏くも伊勢神宮の尊厳を冒し奉り、神宮に対する不敬の行為を為した。  ところが、話はこれだけでは済まない。以上のもののみだったら、昭和八年から十年ごろに起ったありきたりの疑似宗教教団に対する「不敬事件」の弾圧と見過されるが、石田武夫が注意したのは戦後に発表、公刊された某高官の日記の一節である。  昭和十年の末に関西地方にある疑似神道の教団を中心に不敬事件が発生した。「神政隆新会」と称するこの教団は元海軍予備大佐が中心になったものだが、意外なことに宮中に奉仕していた前女官長が信者の幹部になっていた。警視庁ではこれを検挙して取調べたのだが、教団の教義については前記の「高産霊教」とあまり変らない。  警保局資料には「畏くも神宮の御神体についてまことに恐懼し奉る異説を樹て、又は三種の神器に関し無稽の妄説を述べて神宮の新尊厳を冒し奉りたる等」となっていて、ほとんど「高産霊教」と同じである。  しかも、「神政隆新会」と「高産霊教」と関連があるらしいことは、前女官長の供述に「神政隆新会」の仕事を列挙した上、「あけずの蔵──高産霊教本殿の傍にあり。この蔵の研究も必要なり」云々とあることである。これが高産霊教の持つ「三種の神器」であることはいうまでもない。  以上のように石田武夫は引地にかたって語をつぐ。 (高産霊教が三種の神器を地元の鋳物師に偽造させたというのは、おそらく当局の公式発表であって、事実は近辺の古墳の盗掘品にちがいない。東京の好事《こうず》家や一般の者に閲覧させたというのだから、現代の偽造だと彼らに一目でそれが判るはずだ。ことに地方の鋳物師だから、その細工も拙劣だったろうし、また上手にやったとしても必ず東京からきた好事家、いわば考古学に詳しい人によって見破られただろう。多分は信徒の数人が附近の横穴式前方後円墳の羨道《えんどう》を破壊して忍び込み、玄室にある副葬品から鏡、剣、勾玉等を盗み、これを高産霊教の教主に渡した品にちがいない。あの附近は、古代東国の豪族が栄えたところで、古墳群やそれからの優秀な出土品で知られている。  その後、高産霊教の「三種の神器」はどうなったか分らない。附近鋳物師の偽造品として破壊されたかもしれない。心ある官憲がいたら、博物館に移して、然るべき地方の、だが出土の経緯の明瞭でない逸品として保管させたであろう。しかし、そういうことは先ずあるまい。憲兵統制の強い時期だったから、やはり原形は無になるまで粉々に砕かれて土に埋められただろう。  ところが、戦後に出た警保局資料の写真印刷を見ると、其のほかに当時の全国各地の「疑似宗教団体」の名前と組織がリストになって出ている。そのうち神道教団の部には約四百の団体名があるが、表の中、兵庫県の部に「豊道教。──多可郡加美町字豊谷──教祖・伊井百世」の名がある。これが今回の問題だ)  石田はいった上で、最近、神戸で出ている地方紙の「郷土物語茶話」なるカコミ欄の切抜を引地に見せた。それは続きものになっているらしく「其の十三」とある。  その要旨は、多可郡加美町は「播磨風土記」の伝説地としても知られているが、その豊谷集落に「豊道教」の本部がある。大正初の創立だが祭神は豊玉比売《とよたまひめ》尊となって、現在の教祖伊井百世さんは五代目である。同教団のもっとも受難時代は昭和十、十一年で、皇道|大本《おおもと》教弾圧の余波をうけ、不敬の淫祠《いんし》邪教として弾圧を蒙った。ために全国二千人と称された信徒もほとんどなくなって教団も一時解散した。その中で三代目教祖は教団の秘宝である神鏡を官憲の眼にふれぬように隠してこれを完《まつと》うした。それは他の教団が同様な「神体」や「神宝」などを宣伝しすぎたために摘発を受けたのに対し、この豊道教の神宝だけはそれほど公然としなかったために、遂に当局に探知するところとはならなかったのである。一つには但馬に近い播磨の山奥という目立たぬ条件が幸いしたようだ。戦後、豊道教は四代目によって再興され、現在の五代目となっている。──ざっと、こういった記事を石田は引地に示していった。 (ぼくは、この豊道教の神鏡を実見しに行こうと思う。豊道教では秘庫に蔵して密封し、容易には人に見せないそうだ) (神宝のインチキ性をあばきに行くのかね?) (まったく逆だ。ぼくはその神宝を世に知られていない素晴しい古鏡だと思う)      4  石田武夫はあとでは生活のために前にいったようなルポ原稿を書く仕事をしているが、もともとはK大学の美学科を卒業し、考古学にはいまだに郷愁に似た趣味をもっている。思えば、これが今回の彼の仇《あだ》となったようである。  そのとき、石田は引地に答えてこう説明した。 (日本の古墳から出土する古鏡は前漢のころからある。北部九州の甕棺《かめかん》墓の中にはそうした後漢ごろまでの鏡が多いが、畿内には年代が下がって三国時代や六朝《りくちよう》期のものが多い。魏《ぎ》や晋《しん》の鏡だ。これらは華北から朝鮮経由か、または直接に船で輸入された。ところが三国志の英雄争覇戦でも知られているように、魏は南の揚子江あたりにあった呉と対立抗争していた。  魏志倭人伝の邪馬台国でも分るように、三世紀の日本は魏と交通していたから、その華北系の鏡が入っていた。前漢、王莽《おうもう》、後漢、魏、晋と中国の歴史の通りにこういう華北系の古鏡が入っている。ところが魏の鏡と同じ時期に華南系の呉の鏡も入っている。魏と呉は対立していたから、呉の鏡が魏を経由して日本に来たとは思えない。呉と九州の南の豪族とに交通があって、直接華南から九州の南部に輸入されて、それが畿内の豪族の手に入り、あのへんの古墳の副葬品になったらしい。あるいはほかのルートも考えられないではないが、ここでは関係がないからふれまい。  ぼくのいいたいのは、唐以前の古鏡がすべて古墳や祭祀遺蹟などからの出土品であって、一つとして豪族の子孫の家に伝わっていないことだ。家に代々伝わるのを伝世品といっているが、古鏡にはこれが無いのだ。まあ、伊勢神宮の神鏡がどういうものだか実際に拝観した者は居ないから判らないが、これを一応別とすれば全部の古鏡は地下から発掘されたものだ。|※[#「にんべん+方」、unicode4eff]製鏡《ぼうせいきよう》といって中国鏡を真似て日本で造った鏡を含めてだ。  これは不思議だと思わないか。だって当時の鏡といったら貴重品で、だから中国では女が顔を写す化粧道具だったのに、日本に入ってくると鏡は信仰の象徴とも、豪族の権威の象徴ともなったのだ。だったら、なぜ代々豪族の家に伝わらなかったのだろうか。漢の鏡にはその裏側の文様のある部分や紐《ちゆう》(紐を通す穴のところが半球体にもり上っている部分)のところに伝世による手擦れのあとがあるという説があるが、かりにその説を認めるとしても、なぜ最後まで伝世品とならずに墳墓に全部を埋めたのだろうか。  ぼくはね、勾玉にしても剣にしても同じだけど、とくに鏡についていうと、鏡が墳墓の副葬品だけではなく、古代の豪族の家々に代々伝わっているものもあったろうと思っている。もちろん豪族の家は蘇我の滅亡とか壬申《じんしん》の乱はじめいくたの変動のために廃《すた》れたのが多く、貴重な伝世品も最後を完うしたとは思わない。しかし、豪族の家にはなくとも、祖神を祀った神社、氏神の社といったところには豪族の祖が寄進したままに残っているのではあるまいか、ただ、それが地方であるために軽視されてだれも顧みないことと、鏡は御神体だから一般の者には見せない、見せないから世間に広く知られない。また、神社じたいも神体が前々から伝わる古い鏡だとは知っていても、考古学的にそんなに価値があると思っていないからだれにもそれを話していないのだろう。いいかえると、田舎の神社の鏡だというので中央の学者も馬鹿にしてよく調べようとはしないし、神社の神官自身や氏子総代も自分の祠社の神体を馬鹿にして人に語らない、こういう両方の盲点があると思う。その盲点にかくれて、ぼくは現在でも地方の名もないような神社には素晴しい中国舶載鏡が残っているような気がする。  中央にもない中国鏡が残っている例としては呉の赤烏《せきう》元年銘のある半円方形帯神獣鏡が山梨県八代郡高田村から、同じく赤烏七年の銘のある同種のものが兵庫県川辺郡小浜村から出土している。日本に出土した赤烏年号銘の鏡はこれだけだが、山奥の田舎にどうしてこれらが運ばれたかは分らない。  ぼくがとくに兵庫県多可郡加美町の豊道教の「神宝」に注意した理由は、同県|出石《いづし》郡|神美《かみよし》村から古鏡三面が出ていることだ。一面は有銘文帯式四神四獣鏡、一面は階段式神獣鏡で魏の鏡、あと一面は草文TLV式鏡というやつで後漢のものかもしれない。古墳からの出土だが、出石郡神美村というのは豊岡市の近郊で、ちょうど多可郡加美町を一直線に北に伸ばしたところにある。神美と加美と名前もよく似ている。まあこれは偶然かもしれないが。  たいそう長い話になったが、そういうわけで、ぼくはどうしても豊道教の御神鏡を実見したいのだ) (実見したいといっても、先方が断ったらどうする?) (実は、もうとっくに断られた。手紙で豊道教本部宛に鄭重《ていちよう》にお願いしたのだが、その拒絶の返事はこうだ。御神体であるからどなたにも御覧に入れられない、従来も朝野の貴顕紳士、著名な学者からの拝観申込みがあったがすべてお断りしてきている、また、御神鏡がどのような形で、御鏡背の御文様がどのようなものかは申上げるも恐れ多いことで、われわれ奉仕の者も木製の御箱の中に石の御函を納め、隙間には丹《に》の土がぎっしりと詰められた上、石の御函の下には黄金が敷かれ、その上に御奉安した御神鏡を畏くも拝観申上げたことはない、これは初代教祖よりの代々の教訓で、厳重に守られている、不遜を冒して神罰を受けた先例に熱田神宮の神剣を覗き見して疫病《えきびよう》で死んだ神官の話をご存知であろう。また御神体は信仰の象徴、美術品や学術研究品ではないから左様に心得られよ。……こう手きびしく拒絶された) (その断りの手紙を書いたのは、教祖か?) (教祖ではない。教務総統青麻紀元という人だ) (それでは駄目じゃないか) (いや、行って押してみるつもりだ。教務総統青麻紀元という人に談判し、それでもラチがあかなかったら、教祖に会って強引に掛け合う。ぼくとしては、どうしても目的を果したいのだ)  強引はこの男の持前である。でなかったら取材を芯にしたいいルポは書けない。彼は不作法に面会を強要し、露骨な質問をして原稿にし、それを売っているのが商売だ。質問も勘どころを押えているし、相手の話から言外の真相を察知する。直感の鋭い男である。それに今回は商売を離れてのことだから気が乗っている。自己の道楽、趣味となるとだれしも意欲を唆《そそ》られる。その直感が当って、案外に播磨の山奥にある神鏡が古代中国の舶載鏡の逸品で、わが国最初の伝世品ということであるかもしれぬ。  しかし、このときの石田武夫の直感はその行為の果に起る己れの死までは見透しはできなんだ。人間の霊感と神の霊威とを天秤《てんびん》にかけたとき、神威に目方が重かったということになろう。石田が引地に熱をこめてこの話をしたとき、石田は現界と幽界との境を彷徨《さまよ》っていたのである。両界の間には縷《る》の如き魔境が横たわり、陰々たる冥気《めいき》の雲霧に包まれているその状《さま》が石田にも見えなければ、もとより引地にも写らなかった。  石田武夫が最後に電話の声を引地に聞かせたのは、今から三月《みつき》前の、三月十六日の早朝である。 (じゃ、これから播磨に行ってくるよ)  声は活々《いきいき》としていた。  石田が赴いたのは根の国、底津国、黄泉《よみ》の国だった。それを文明利器の電話で報らせてきた。しばらく遇わぬ人から不意に電話があってから間もなくその人の訃《ふ》を聞いたという話はある。この場合は霊感を虫が知らすとか世間でいうが、石田の場合は引地が前に話を聞いているので死の予報とはいえない。  その日は、十七日であった。  ──十七日午後四時すぎ、豊道教本部裏の宝物殿の中で大きな物音がした。本部に居合せた信徒三名が何ごとが起ったかと駆けつけると、その前に宝物殿の中から白い着物に水色の袴をはいた姿がとび出して両手で頭を抱えながら小径を向うのほうに走って行くのが見えた。白衣に水色の袴を着けているのは、教務総統の青麻紀元しかいない。信徒は、先生、先生、と呼んだ。しかし、青麻は日が昏れかけてさらに暗い杉林の中に一散に駆けて見えなくなった。杉林の中は夕闇の青い靄《もや》が棚引《たなび》いていた。  信徒は呆れて見送ったが、宝物殿の扉は開け放しになったままである。この中には大切な御神宝が秘蔵されてあるので、信徒は気がかりとなって三人で中に入った。  宝物庫の中は真暗である。真昼間でも中に入るときは懐中電灯を必要とするのに、まして外は黄昏《たそがれ》どきである。山峡だから日暮が平野部よりも三十分は早い。三人は懐中電灯の用意がなかったのでマッチを擦った。マッチは宝物殿では厳重に禁じられているが、やむを得なかった。小さな炎の明りに見えたのは洋服の男がコンクリートの床にうつ伏せに倒れている姿だった。  信徒の一人がしゃがんで仆《たお》れた男の頭を手で持ち上げてみた。傍の信徒のさし出すマッチの明りに、頭を抱いた男の指が血に染まるのが見えた。信徒は仰天して男の頭を離した。頭は床に落ちると同時に白い床に血を零《こぼ》した。  三人の信徒は青くなって本部の拝殿にとって返した。教祖さまに早く報らせようとしたが、教祖は本殿内の御神憑《ごしんぴよう》ノ間《ま》に閉じこもっておられる。拝殿と本殿とはふだんは御簾《みすだれ》が下がっているだけだが、教祖が御神憑ノ間にこもっているときは杉戸で閉められる。本殿の中の御神憑ノ間は、さらに神前に向っての小室であり、教祖が祈念中は襖《ふすま》で仕切られる。  御神憑ノ間にはいかなることがあろうと余人の進入を許さない。教祖のお言葉を外に伝え、教祖に飲食を供するのはただひとり教務総統の青麻紀元一人のみであった。その青麻先生が今はいないから、信徒はうろたえながらも御神憑ノ間からの教祖のお出ましを待つほかなかった。教祖が神告を受けようとしているのも、この三人の信徒の為だったのである。  そうこうしているうちに緋《ひ》の袴をつけた巫女の伊井千代が白木の三方《さんぽう》に緑の玉串三|振《ふり》を載せて拝殿に入ってきた。信徒は早速に御神殿の変事を巫女にいい、教祖さまへの御取次を依頼した。  教祖さまが御神憑ノ間に籠《こも》って居られる間は、教務総統以外には巫女も出入できぬ。しかし現在は非常の際である。ことに青麻総統が一散に裏山の林中に逃げる後姿を信徒が目撃しているのだから、巫女の伊井千代も本殿の杉戸を排し、御神憑ノ間の襖を開けに行った。五代目教祖の伊井百世はすぐに三人の信徒の前に現われた。  現界の変事を聞いて、神界に浮游していた教祖も恍惚から急に引き戻されて蒼い顔になっていた。宝物殿内で殺されたのは前日東京から来て御神鏡の拝観を青麻教務総統にねだっていた雑誌のルポ記者石田武夫である。後頸部を先の尖った、たとえば槍のようなもので突き刺され、動脈を断《た》たれてこときれていた。  教務総統青麻紀元の行方はその夜は分らず、それより四日経った三月二十一日午後一時ごろ、本部のある村からずっと西のかた、四キロはなれた山中の杉林の間で死体となって見つかった。発見者は、近ごろ都会に受けている山菜を商人に売るため菜摘《なつ》みに入った村人であった。総統は白い着物と水色の袴をはいていた。  青麻教務総統も後頸部を槍のようなもので突き刺されていた。石田と同じ殺害方法である。しかし、それだけではない、総統は無残にも右の眼を突き刺されて眼球が流れ去っていた。血もあまり出ていない。噴出したにちがいなかろうが二日前の晩に雨が降って洗い流されていた。現場は千ケ峰の尾根が南に流れて、その山稜を西に越した急な斜面であった。斜面の麓は芽崎《めさき》という集落である。一方、山稜の東側頂上近くに「岩座《いわくら》」の山祠がある。      5 「教祖さまは……」  と宿の女中のお文さんが階下の用を済ませて上り、引地の酌の相手をはじめてから事件のことをいい出した。お文さんの気分もほぐれていた。西脇からの列車が着いたようだが、客は宿の前を素通りである。 「教祖さまは、東京から来た人は神罰を蒙ったんや、あんまり御神宝を見せい見せいとせがんだので天ノ日槍が天から降ってその人の後首をぐさりと刺したんやというてはりました」  もとよりお文さんはこの客が三カ月前に神罰を受けた男の友人とは知らない。 「天ノ日槍?」 「へえ。神崎郡の粳岡《ぬかおか》のほうから日槍が空を飛んできてその人を刺し殺すと、また空を飛んで粳岡に戻りやはったんやと教祖さんは警察にも述べられたそうです」  天ノ日槍は古事記に天の日矛《ひぼこ》にもつくり、垂仁朝に但馬に来帰した新羅《しらぎ》の王子という。「播磨風土記」の揖保《いほ》郡|粒岡《いいぼおか》、宍禾《しさほ》郡|川音《かわと》村、同郡|伊奈加《いなか》川、同郡|奪谷《うばいたに》、同郡|御方《みかた》里の条などでは、天ノ日槍の活躍が述べられている。神前《かんさき》郡|粳岡《ぬかおか》の条には出雲の伊和大神《いわのおおかみ》と天日槍《あめのひぼこ》の二神が各々軍を発して戦ったと見えている。  古典にある天ノ日槍は人名である。しかし、これを朝鮮より日本に伝えられた銅矛《どうぼこ》の擬人化とする説もある。それなら古代の槍が粳岡の伊和大神(大国主命)との戦闘場から飛んできて石田武夫を刺殺し、また戦場に飛び戻ったことになる。槍は二千年の時間と何十キロかの空間とを飛翔《ひしよう》し往復したのである。 「それで、殺人のあった宝物殿の現場には凶器が見つからなかったというのだね?」  引地はいった。 「そうです」 「教祖は本気で警察にそういったのかね?」 「本気ですとも。あの方はそう信じ切っていやはりました」 「うむ。それじゃ同じ手口で、いや、青麻教務総統が千ケ峰の西麓の山林中で同じように後首を突き刺されて死体となっていたのも天ノ日槍のせいだというのかね、教祖は?」 「そうです」 「どうしてだろう? 青麻教務総統は教祖の神示のお取次役でもあり、豊道教の総元締なのに?」 「なんぼ教務総統でも人に神罰を蒙らせるようにしたのやからあかんのやそうですわ。東京から来やはった男の人を御宝物殿に入れはったのは青麻さんですさかいな」  理由は明快であった。しかし、石田はあれほど憧れていた神鏡を実見する前に生命を絶たれたようだ。木箱の中に石の函を入れ、隙間を丹の土で詰め、石函の床に黄金を敷いてその上に納められた鏡が我が国最初の伝世品としての中国の古鏡であったかどうか。神鏡は依然として二重の箱の中に格納されたままであったそうな。 「しかしだね、凶器は山芋を掘る鉄棒だと警察では断定しているそうじゃないか」山芋掘りの鉄棒は人間の背丈くらいあるが、先端は深く土が掘れるように尖っている。まったく槍の穂先のようだ。警察で二つの死体を解剖したところ、突き傷の大きさといい深さの具合といい凶器は同じだといっている。ただ青麻教務総統が右の眼を突かれているのに、東京から来た雑誌記者の男にはそれがない。そういう違いはあるが、とにかく凶器は一致している。凶器が山芋掘りの鉄棒だというのは、被害者の傷口にわずかながら土が入っていたのでも推定できた。去年の秋、山芋掘りのときに土が鉄棒に付いた。それが洗い落されぬままになっていたのを凶行に使用したから、傷口に残った。──実は、引地はこの宿に入る前に警察に立寄り、捜査係に話を聞いていた。 「警察がいうには、豊道教本部に近い農家の一軒から山芋掘りの鉄棒が一つ盗まれていた。その農家では裏の小屋の中に入れておいたそうだが、いつ無くなったのか気がつかない。一カ月前まではたしかにあったというんだが」 「この辺の村の農家はみんな山芋掘りの道具をもってはります。けど、それを使うのは秋だけです。あとは小屋の中に投《ほお》りこんでおくさかい、盗られても気がつかなかったのです」 「山芋掘りの鉄棒の尖ったさきは、みんなほとんど同じだ。しかし、調べるとほかの農家にはそれぞれ自家のがあった。盗まれた家のがいまもって分らない。その農家の人のアリバイははっきりしているからもちろん嫌疑の外だ。山芋掘り棒の先と二人の致命傷とは大きさが一致している。盗んだ人間が殺人に関係があるらしいがいまのところ分らない。凶器に使った芋掘り棒も発見できないでいる。警察では凶器さえ見つかれば何とか解決の手がかりがつかめるといってるらしいけどね」 「教祖さんは芋掘り棒などはてんで問題にもなさいません。あれは、天ノ日槍が空を飛んできて突き刺したんやいうて……」 「解剖では、青麻教務総統の死亡時日も三月十七日の夕方から夜八時ごろの間という推定になっている。つまり東京の男が宝物殿内で殺された時とあまり変らない。遅れても二、三時間ぐらいの違いだ。すると、信徒が見たように青麻さんは白衣と水色袴で宝物殿から逃げ出して山林の小径を駆け上り、それから迂回して千ケ峰の西麓の山林に来たとき、あとから追ってきた犯人に芋掘り棒で殺されたのだろうか。発見は密林のためそれから四日も経っているがね」 「だれぞ青麻先生のあとを追いかけていた人間を見た者がおますのやろ?」 「いや、それはない。宝物殿の前に駈けつけた信徒も、青麻さんが頭を両手で押えるようにして逃げた姿しか見ていない。その信徒三人以外には目撃者がない」 「そんなら、やっぱり教祖さんがいやはるように山芋掘りの鉄棒じゃのうて、天ノ日槍かも分りませんなア」  お文さんは溜息をついてこういった。 「東京の人が殺されはった翌日の十八日の夕方から、教祖さんは浄《きよ》めのお霊鎮《たましず》めの臨時祭をとり行われはりましたのに」 「なに、お霊鎮めの祭りだって? 鎮魂祭だな。それはどういう儀式だね?」 「本部から御神体を御舟代《みふなしろ》に入れはって、それを千ケ峰の岩座《いわくら》まで信徒がみんなで引いて行き、そこでお祭りをしやはるのです。あの村の者が総出でそれをやりはったそうです。御舟代に入れる御樋代《おひしろ》というのもおます。その御舟代の前後両脇は参拝者に見えんように白い幕を引張って。そして火の明りを消して……」  それではまるで伊勢神宮の遷宮祭と同じではないか。遷宮祭では神体の鏡を御樋代に入れ、それを御舟代に乗せて造営の出来上った新宮まで運び入れる。このとき樋代の前後左右は多勢の神官によって捧げられる白絹の幕の囲いがなされる。これを絹垣行障《きぬがきこうしよう》といって他の奉仕者の眼から遮るのである。もちろん、この行列が進む間は庭燎《ていりよう》(庭火)は全部消されて闇となる。 「御舟代には御神体だけを入れてあるのかね?」 「さあ、わたしは知りませんけど。教主さまが御舟代の大きな木箱をリヤカーに乗せて岩座まで引張って行かはります。五、六人でこれをお手伝いなさいますけど、白い幕で囲う人たちは別にいやはります」  リヤカーだけは現代向きで、いかにも地方色があるが、儀式は伊勢遷宮を模している。もっとも豊道教の祭神が天照大御神の御変格神ならそれも道理にちがいない。 「ちょっと訊くが、教祖は独身だそうだが、結婚はしないのかね?」 「まだ、そないな話は聞いてまへんなア」 「教祖は神に仕える身だからかね?」 「さあ、どうでっしゃろ」  ──翌朝十時すぎ、引地は宿を出て岩座に向った。お文さんは千ケ峰の登山やったら、そのお靴ではご無理ですやろ、といったので短靴を宿から借りたゴム裏の登山靴にはきかえ、さらに杖まで持たせられた。登山口まではかなりあるので、宿の若い人が小型車で太田という集落まで送ってくれた。この太田は、千ケ峰の裾が二つに割れた裂け目の懐になっている。ここから岩座までは足でなければ登れない。  引地は山の裂け目を登った。両側は杉林で、ところどころ鳥居がある。道は急で、ときどき休まないと息が切れる。千ケ峰の頂上が千メートルで、岩座は六百メートルのところと地図で見当をつけてきた。太田が三百メートルだから相当な急勾配である。  今日も曇っていてうすら寒いが、四十分ぐらいかかってようやく岩座に登りついたときは汗が出た。ここまで遷宮祭式に来たのでは行列も相当骨だっただろう。もっとも地元の人は馴れているから、こっちで思うほどの苦労ではあるまい。  岩座は、五つの巨岩が浸蝕海岸の岩礁のように地面から頭を出して互いに囲むようにしていた。岩は花崗岩の自然石だが、長い風雨にさらされて真黒になり、それに苔《こけ》が群《むらが》りついていた。前に七五三繩《しめなわ》が張ってある。横の立札に「宇智賀久牟豊富之神山《うちかくむとほのかみやま》」とあった。この神は風土記にある。ウチカクムとは打ち囲むで、石の配置の状《さま》をいっているのであろう。古代の神名は見たままの印象をそのまま名につくっているのが多い。バスガールとしての伊井千代が説明したようには岩は箱を重ねたようになっていない。  あたりは森閑《しんかん》としている。雲が近い。雲と頭の間を鴉《からす》が啼いて渡る。見上げる千ケ峰の頂上は厚い雲に隠されている。頂上附近は杉の原生林に蔽《おお》われて真黒になっている。眼を落すと岩座の前は平地で、草が生えている。人がよく来るのか草は短い。豊道教の五代教祖は石田武夫が宝物殿で殺された翌日の晩、岩座で鎮魂祭を執行したが、多分この草の平地だったのであろう。  この岩座は山頂近くにある。山頂に祭祀場があるのは、山岳崇拝の仏教思想が入ってからで元のかたちではあるまい。古代の祭祀場はたいてい山麓に在って山頂を仰ぐようになっているからだ。巨石崇拝と山頂崇拝とは別ものである。  引地は千ケ峰の山頂からの稜線を左に辿って眼を移した。流れ落ちている尾根の向うが芽崎の集落である。此処から尾根までは三百メートルくらいだろう。すでにここが標高六百メートルだからそれほどきつい勾配ではない。持ってきた五万分の一の地図を見ると尾根から西側は急峻な斜面である。教務総統青麻紀元の死体はその斜面の下にあったのを山菜取りの女が見つけている。  仮《か》りに、岩座での鎮魂祭を執行中「庭燎」を消した暗黒時、御舟代から死体を取り出し、人間ひとりがそれを背負ってあの尾根まで登ったとする。地形からみて、それほど至難の行《ぎよう》でもない。鎮魂祭の祭主五代目教祖は神|憑《がか》りして沈黙し、他の信徒は遙かに離れて坐し、大祓《おおはらえ》の祝詞《のりと》を斉唱していたろう。かく依《よ》さしまつりし国中《くぬち》に、荒ぶる神|等《ら》をば神《かむ》問わしに問わしたまい、神|掃《はら》いに掃いたまいて、語問《ことと》いし磐根樹立《いわねこだ》ち、草の片葉《かたは》をも語止《ことや》めて、天《あめ》の磐座《いわくら》放れ、天の八重雲をいつの千別《ちわ》きに千別きて天降り依《よ》さしまつるその天降りこそ、尾根からの逆落《さかおと》し、転《まろ》び落し。──かく青麻紀元の亡骸《なきがら》は岩座《いわくら》を離れ、尾根を飛び、茂き山林を千別けに千別けて急峻をころびつまろびつ天降る。その状《さま》を岩根も樹《こ》立ちも葉の片葉も息を殺し見まもっていた。樹上にひそむ梟《ふくろう》も声を出さぬ。……  うしろに足音がして引地はふり返った。今は紺の制服でもなく、白衣に緋袴でもない伊井千代がいつの間にか来て立っていた。 「やあ、昨日はどうもありがとう」  と、引地は夢からの醒め心地である。あんまり適当すぎるところに巫女が現われた。 「何を見てらっしゃるんですか?」  とワンピース姿の巫女は微笑して訊いた。短い髪が色の白いまる顔によく似合う。 「散歩です。昨日バスの中で、あなたからこの岩座神の説明を聞いたからね」  千代はうなずいた。うなずいて引地の顔をじっと見ている。バスの説明を彼ひとりに向けたと同じ瞳《め》である。 「あなたは東京からお見えになった方ですね?」 「そうです」  伊井千代は引地が何者かを知っているような口吻《くちぶり》であった。 「豊道教本部には昨日参拝した」  引地はいった。 「知っています。箸原のバス停で降りられて本部のほうに歩いてらしたのを、バスの中から見ていました」 「宝物殿も外からだが拝見しました」 「あの御宝物殿の中で、三カ月前に東京から見えた文筆家が殺害されましたわ」  千代は淀《よど》みなくいった。 「ぼくの友人ですよ」 「だろうと思いました」 「下手人はまだ検挙《あが》らないそうだね。ぼくは、こっちに着いた日にちょっと警察に行って様子を聞いたけど」 「お気の毒ですわ」 「友人は御神鏡の正体を見たがっていた。あの男は考古学を少しばかり齧《かじ》っていた。本邦最初の中国古鏡の伝世鏡がそこに存在しているのではないかと期待を持っていたのです。だからずいぶんその拝観を強要したと思うけど」 「そうでした。その方は青麻さんにねばっておられたそうです」 「あなたは、あの日はバス会社を休んでいたの?」 「非番の日でした。それでいつもの通り巫女で奉仕していたのです」 「友人を宝物殿に案内したのは青麻教務総統ですか?」 「根《こん》負けしたのでしょう。わたしたちは知りませんでした」 「わたしたち?」 「教祖さまとわたしです。教祖さまは従姉です。あの変事のとき、教祖さまは御神憑ノ間に閉じこもり、わたしは本殿で御奉仕していました。拝殿には信徒さんが三人神示を待って坐っておられました」 「本殿と拝殿の間は杉戸で閉められていたのですね?」 「そうです。横|桟《さん》の多い御杉戸です」 「それなのに宝物殿の物音は信徒さんが聞いている。宝物殿には本殿のほうが近い。あなたがたには聞えなかったのですか?」 「教祖さまは御神憑ノ間に居られるとき、御託宣をお待ちになってそれに精神を集中なさっているから、たとえお傍で爆弾が破裂してもお耳には入りません。わたしもご祈念していましたから聞えませんでした」 「あなたは、ずっと本殿に坐っていたの?」 「信徒さんのために奉献のお玉串(榊)をとりに社務庁のほうに行って、その支度をしたりしていましたから、ずっとそこに坐っていたわけではありません」 「あなたがその御玉串を三方に載せて信徒さんの前にきたとき、信徒さんから変事を聞いた。だから、あなたは事件発生のときは本殿にはいなくて、社務庁のほうにいたのですね?」 「そうです。その間に信徒さんは物音を聞いて御宝物殿の前に駆けつけて戻ったそうですから。わたしが御玉串を三方に載せて行ったとき信徒さんからそう聞いたのです。教祖さまに早くお知らせしてくれといわれるので、御神憑ノ間に外からお声をかけますと、教祖さまはすぐにお出ましになったのです。そうしてみんなで御宝物殿に向うと、あの中であなたのお友だちが後首を槍で突き刺されて亡くなっておられました」 「警察では凶器は槍ではなく、山芋掘りの鉄棒だといっているが。近くの農家から山芋掘りの鉄棒が一本盗まれているそうですね」 「聞いています。でも、教祖さまは天ノ日槍が飛来して刺されたといっています。お気の毒ですが、御神鏡を冒涜なされようとした神罰です」 「青麻総統もその神罰を受けたのですか?」 「教祖さまは、そういって居られます」 「信徒三人が宝物殿の前に行ったとき、青麻総統はその中からとび出して頭を両手で抱えるようにして押えながら裏山に逃げて行ったといっている。青麻さんがぼくの友人を殺したわけでもないのに、なぜ逃げたりなどしたのでしょうか?」 「青麻さんはあなたのお友だちが神罰を受けたのを見てびっくりし、多分自分も御神罰をうけると恐れて頭を押えて逃げ出したのでしょう」 「その青麻さんはあの尾根の向うの斜面で、友人と同じような傷を受けて死体となって発見された。警察の調べでは、ぼくの友人が殺された時間からそう経ってないということだが」 「そういうことは、わたしには分りません」 「まだ青麻さんの死体が見つかる前、つまりぼくの友人が殺された翌晩、この岩座に教祖や信徒が集って鎮魂祭を執り行なったそうだね?」 「そうです」 「そのとき、あなたもここに来ていたの?」 「わたしはご本殿に残って礼拝をしていました。本部にだれも居ないのでは困りますから」 「だれも居なかった?」 「信徒はみんな鎮魂祭に奉仕していましたから」  折から雲の間から陽が洩れて西側の山稜の肩を輝かした。曇り日の、暗々と黒ずんだ風景の中だけにその山稜の一点は崇り神の耀《かがや》きにも似た。空からの一条の光の中をよぎる黒点まで殃《わざわ》いなす高つ鳥の飛翔とも思われた。 「ああ、あなたは」  と五代目教祖の巫女が引地の心を読んだようにいった。 「あの尾根から青麻教務総統の死体を突き放し、下まで転落させたように思ってらっしゃるんですのね。でも、それは無理ですわ。本部からこの岩座にお運びする御舟代《みふなしろ》には御神体の御神鏡しかお納めしておりません。御神鏡は軽いですわ。青麻教務総統は六十キロ以上は十分にあるでしょう。死体は重くなりますからね。第一、人間の死体は御舟代にも御樋代にも入りきれませんし、たとえ無理に入れたとしても、手押しのリヤカーに移すときはお手伝いの信徒さんに分ってしまいます。同じように六十キロの目方を乗せたリヤカーの運びを手伝う人は多いから、その重さでも怪しまれます。あなたはあまりにお絹垣行障に眼を奪われすぎています」  引地は言葉を失った。巫女は、その彼を蔑むような眼付をしていった。 「あの尾根の下、青麻教務総統の死体が在った麓の集落は芽崎《めさき》と申します。播磨風土記に出ている伝説地ですが、ご存知ですか?」 「いや……」 「風土記にある目前田《まさきた》です。目前田は、品太《ほむだ》の天皇《すめらみこと》(応神天皇)、此の野にみ狩りしたまいしに、天皇《すめらみこと》の|※[#「けものへん+葛」]犬《かりいぬ》、猪《い》に目を打ち害《さ》かれき。故《かれ》、目割《まさき》という」  巫女は、バスの中よりも、もっと朗々と祝詞の如くに誦した。声はいかにも幽玄であった。  教務総統青麻紀元は右の眼を天ノ日槍で抉られていた。神鏡の実体を見ようとしたのは石田武夫ではないか。目を打ち害《さ》かれるなら石田でなければならぬ。しかるに彼の眼は何ごともない。なぜに青麻教務総統の眼は割《さ》かれなければならなかったのか。──そこには憎悪がある。  巫女はうしろ向きになり、凝然《ぎようぜん》として豊道教本部を見下ろしていた。その後姿の上半部が灰色の空に嵌《は》めこまれている。      6  引地は宿に帰って、部屋にお文さんを呼んだ。 「あんたは、豊道教の信徒かね?」 「いいえ。とくべつには」 「この村の親戚や知合いに信徒がいるかね?」 「へえ。叔父も叔母もそうです。それから知合いにも」 「それじゃ、豊道教の内側の様子はその人たちの話から、いや、噂だといってもいいけど聞いてるね?」 「どないな噂のことですやろ?」  と、お文さんの眉が曇った。 「さっき、岩座で巫女に遇《あ》ったよ」 「千代さんのことですか?」  お文さんは眼をみはった。 「そう。今日もバス会社のほうは非番らしい。きれいな娘だね。二十歳《はたち》だとかいったね。結婚はきまってないのかね?」 「まだちょっと早うおますやろ」 「従姉の五代教祖さまは独身だ。服《はた》織り屋で垣間《かいま》見たが、きれいな女《ひと》のようだ。従妹の千代さんとどこか似ているとぼくにいったのはあんただった。似ているなら教祖さまも美人だ。二十八歳の独身。年齢《とし》よりは若く見えよう。精神も青春も神にささげてきたから」 「………」 「青麻教務総統は妻子を長いこと新潟県に置いてこっちで教務を見ている。これも独身と同じだ。独身でなければ教祖さまが御神憑ノ間に閉じこもられた間、お側に仕えて神示のお取次をしたり、召上るものを給仕したりすることはできない」  ──女王卑弥呼、鬼道に事《つか》え、能《よ》く衆を惑《まど》わす。年|已《すで》に長大なるも、夫壻《ふせい》無し。唯々男子一人有り、飲食を給し、辞を伝え、居処に出入す。……引地の胸は「倭人伝」の記載を読んでいる。 「青麻教務総統は四十五歳。男ざかりだ。……お文さん。ぼくも噂をほかからちらりと聞いている。その噂はあんたの耳にも入っているはずだがね。教祖さまに関する噂には信徒の口が固いだろうが」  お文さんの瞳がうろたえ、耳の附根から真赧《まつか》になった。それがお文さんの言葉にならない答えである。彼女は階下に降りて行った。  引地は畳に仰向けになった。天井を見ながら考えている。青麻教務総統の死体を解剖した警察の嘱託医は、被害者の眼球がとび出して──それだけでもよほど強い力で攻撃が加えられたことが分る、天からまっすぐに槍の穂先が人間の眼球に落下したのならその状態になるだろうが──流れ出た眼球の奥の眼窩《がんか》の肉にわずかな土が残っていたのを証明している。警察は神話を信じないから、凶器の山芋掘り棒の先に洗いもしないで附着したままの昨秋の土がそれだと推定している。空を駆けて飛来した天ノ日槍の穂先にも神崎郡粳岡の土が付いていたのか。  引地は眼を閉じ、ああでもない、こうでもないと空《くう》の線を書いては消し、消しては書き直した。書いたり消したりの間は自在の妙境である。しかし、百の虚線から一の実線を求めるのは苦労である。自分で引いた無数の線がごちゃごちゃになってどれが実線やら虚線やら分らぬ。実線が虚線の中に埋まっているようである。そのうちに虚線と思われるものが写真にエア・ブラッシュをかけたように次第に薄くなり実線だけが濃く残されてくるなら成算ありとなる。それまでに一時間半かかった。  畳から起き上り、階下に降りて、「お文さん」と呼んだ。 「これから豊道教の宝物殿に行く。ぼくといっしょに行かないか?」 「へえ。お参りでっか?」 「参拝半々だ。お文さんだけ連れて行ったらぼくが君を誘惑したようにとられる。ここの主人もいっしょに行こう。宿の亭主は閑なはずだが」 「旦那はさっき警察署の会議が終って帰りはったばかりです」 「警察の?」 「旦那はこの町の防犯組合長をしてはります」 「そんなら余計に都合がいい。いっしょに行ってもらおう」  ──三人で豊道教の宝物殿の前に着いたのが午後三時ごろだった。黒木の鳥居をくぐってここにくるまで誰とも遇わなかった。服織りの音だけが遠くから聞えている。五代教祖さまは木綿縞の手織りに余念がないようだった。 「御宝物殿」の立札の横に立ちどまってコンクリートの秘庫を三人で見た。頑丈な朱色の錠が翅《はね》をひろげた蝶のように下がっている。 「青麻教務総統はこの錠をはずして、東京から来た男を御宝物殿の中に入れた。みんなそう思っています。しかし、案内したのは青麻総統ではない。青麻総統はその前に天ノ日槍で後首を刺されて死んでいたのです」  引地がいうと、お文さんも宿の亭主の防犯組合長も、そんな莫迦《ばか》なことはないという顔つきをした。 「三月十七日の午後四時ごろというと外はうす暗くなりかけている。宝物殿の中はもちろん真暗です。ところが青麻さんは懐中電灯を持ってきていなかった。どうしてそれが分るかというと、懐中電灯は宝物殿に落ちてなかったというし、信徒三人が青麻総統の逃げる後姿をうす暗い夕景の中ながら目撃したとき、両手で頭を押えていたという。どうもその様子から懐中電灯は手に持っていなかったらしい。持っていれば目撃者の印象に残るはずですからね。懐中電灯は逃げるときに、懐に入れていたという解釈もできないことはないけど、咄嗟《とつさ》にあわてて逃げるときは手に持ったままというのが普通でしょう。そのように仮定すると、懐中電灯を持たないままに東京の男を真暗な宝物殿の中に入れるわけはない。東京の男を案内して入れたのは別の人物。それが二人を殺した下手人でしょう」  引地はお文さんと宿の亭主とを連れて山径を少し上った。すると杉林の間に渓流が現われた。そこで引地は立ちどまった。 「青麻教務総統は、ここで白衣と水色の袴をはいたまま、後首を槍先のようなもので刺されて殺された。そのときはうつ伏せの姿勢だった。山林の中でうつ伏せになっているというのは、その胸の下に恋人を抱いていたわけだね。だから背後から忍び寄ってこられても分らなかった」  お文さんが顔を赧《あか》らめて下をむいた。 「槍の穂先は真下にある青麻さんの後首を狙って力いっぱい落下して、そこで青麻教務総統は一瞬に昇天。今度はその身体を引き起して水に入れ、槍の穂先は右眼を突き刺した。とび出した眼球の硝子体も血液も、後首から流れる血もいっしょになってこの渓流に押し流される。一晩かかったら人間の体内からの血は無くなってしまう。この殺人と死体処理の作業は青麻さんの胸の下にさっきのさっきまで抱かれていた恋人も手伝った。それは多分三時ごろだったでしょう。……そうしてまだ暗い翌早朝に青麻さんの死体は渓流から引上げられて、うす暗い杉木立の中に隠された」 「しかし、四時ごろ宝物殿の中で東京の人が殺されはったあとで青麻さんは逃げてはります。三人の信徒はんが目撃してはるのんやけど」  防犯組合長が厚い唇を尖らせた。栄養のいい、五十すぎの肥った男である。三人はまた宝物殿の前に戻っていた。 「白い着物と水色の袴の後姿を見たというだけでしょう。だれも顔を見た者はない。しかも、うす暗い夕方で、駆け去る後姿を瞬間に目撃しただけです。白衣に水色の袴、それだけで青麻教務総統と三人の信徒は判断したのです。無理もありません。その服装でいたのは青麻さんだけですからね」 「するとあれは……」 「頭を両手で押えて逃げて行ったといいますね。ずいぶんおかしな恰好と思いませんか。あれは女の頭を両手で蔽い隠すためです。緋の袴を、用意してある水色の袴にはきかえるくらい何でもありません。白い着物は前から着ているんですから。……しかし、青麻さんが殺されたあと、東京から来た男を宝物殿に案内したのは教祖さんです。教祖さんはそのとき御神憑ノ間に閉じこもったままでいたと三人の信徒に思いこませていた。御神憑ノ間のある本殿の奥と宝物殿とは非常に近い。もちろん本殿からそっちのほうに行く出入口はあるから杉戸で隔てられた拝殿で待っている信徒には分らなかったのです」  服織りの音が歇《や》んだ。引地はそれに気づかぬようにつづけた。 「東京から来た男は宝物殿の前で教祖がくるのを待っていた。彼は拝観を直接教祖に交渉したのです。それはだれも知らなかった。この通り、この教団の境内は月並祭でもない限り、ほとんど外の人は来ませんね。三人の信徒は何か心配ごとがあり、教祖の神示をうけにその日の四時前にくる約束になっていたと思います。これも教祖の計画に幸いした。�目撃者�がつくれるからだ。宝物殿のこの錠前を鍵で開けたのも教祖なら、東京の男に懐中電灯を渡して、宝庫内の神鏡を見せるようにしたのも教祖です。東京の男がかがみこんで熱心に函に納まっている御神鏡を懐中電灯で照らしながらのぞきこむ。背中を曲げてかがみこむと、後首が上向きになる。槍の穂先はその伸びた後頸部にむかって上から力いっぱい突き刺された。男が一言も発せずに倒れると、教祖は御神鏡の函を元通りにして、宝物殿の扉は開け放したままで本殿奥の出入口から御神憑ノ間に戻る。もちろん懐中電灯は死者から取りあげていました。……その間に、緋の袴を水色の袴に着かえた巫女が宝物殿の中に入り、わざと大きな音を立てる。三人の信徒がそれを耳にして拝殿の表口から出て宝物殿に向うと、水色の袴にかえた巫女は両手で頭を押えて宝物殿から飛び出し、反対側の小径を駆け上って逃げたのです。……そんなふうにして信徒が拝殿に戻り、宝物殿の殺人を早く教祖に知らせようとしたが、御神憑ノ間にはどんなことがあっても勝手には入れないようになっている。焦慮《あせ》っているときに、社務庁で御玉串を調達していたと称する巫女が三方を持ってきた。このときはむろんまた緋の袴です。信徒が変事を告げると巫女はこれを教祖に報告に行く。そこではじめて教祖が三人の信徒の前に姿を出したのですよ」  どこかで、かすかに足音がしたが、三人は話に気をとられていた。引地は宝物殿の立札のほうに身体を寄せた。 「それが十七日。十八日の夜は千ケ峰中腹の岩座で鎮魂祭があった。伊勢神宮の遷宮式に似せた御舟代を囲む絹垣と、庭火を消して暗夜にするのとでぼくもすっかり惑わされた。しかし、この村人たちがそれに奉仕し、すべての眼がそれに奪われているとき、ひとり本部に残った巫女は杉林中の青麻教務総統の死体を別のリヤカーに乗せて引き、山道三キロ、山裾を迂回して芽崎集落の上まで持って行き、そこの山林の中に棄てて帰ったのです。死後四日経った発見の前の晩に雨が降ったため、殺された青麻さんの血が洗い流されたのではない、死者はとっくに身体から血を失っていたのです」  芽崎は目前田《まさきた》。犬、猪《い》に目を打ち害《さ》かれき。──巫女千代の呪咀の声が引地の耳には聞えてくるようである。  巫女を以前から犯していたのは教務総統。二十八歳の教祖の居処に四十男の教務総統はそれよりずっと前からただ一人自在に出入する間柄であった。青麻紀元が「男」として処女を涜《けが》し、そして一人の「女」を裏切ったとき、女二人の復讐の協力ができあがった。男の眼を打ち割《さ》きたるは、荒振《あらぶ》る悪《にく》しみの、震《ゆ》るるが余《あま》りである。…… 「どうして東京から来やはったお方まで殺しはったんですやろ?」  お文さんが慄え声で引地に訊いた。 「青麻さんが殺された動機を曖昧《あいまい》にするためだろうな。まさか神罰とはだれも信じないけど、他を当惑させるのはたしかだ。ぼくも迷ったから」  お気の毒に、とお文さんは見たこともない石田武夫のために冥福の念仏を唱えた。お文さんは神道ではなかった。神ながら鎮まりませとも誦せず、柏手《かしわで》も鳴らさぬ。 「それで、お二人を殺害した凶器は、やっぱり盗まれたまま未だ発見されてへん山芋掘りの鉄棒でっか?」  防犯組合長が訊いた。 「いや。農家から山芋掘り棒を盗んだのはトリックでしょう。血がついてないそれはどこかに埋め匿されているでしょうね。……天ノ日槍は、これですよ」  引地は「御宝物殿」と書いた立札につと歩むと、その下の棒杭に両手を掛け、力をこめて引き抜きにかかった。彼にしても自分の予想が的中しているかどうかの賭であり、お文さんと防犯組合長を前にして運命の瀬戸際のようなものであった。  地から引き抜かれた立札は、|一谷※[#「女+束+欠」、unicode5af0]軍記《いちのたにふたばぐんき》の三段目・陣屋の熊谷直実の見得《みえ》で引地新六の両手に高々と持たれたが、いままで地の下に埋っていた樫の棒杭の先端に、お文さんも防犯組合長も眼を奪われた。  そこは山芋掘りの鉄棒の先のように削られて尖っており、土にまみれて、どす黒い血が粘りついていた。──この血を今まで洗わずにいたのは、洗っても痕跡が残るから、そして新しい立札と取り換えるにはまだ時期が早いから、とそう判断したのか、それとも女の怨恨が「天ノ日槍」に付いていた血をいつまでも地面の下に保存しておきたかったのか。  女二人の哭《な》き伏す声が横の木蔭から聞えた。まだその姿はここには見せぬ。── [#改ページ]    恩《おん》 誼《ぎ》 の 紐 [#この行3字下げ]≪ぼくがおもうに、ここに集っている聴衆は、もし殺人事件がないとなったら、大いに落胆して帰って行ったことでしょうよ≫(ドストエフスキー「カラマーゾフの兄弟創作ノート」。米川正夫訳)      1  九歳の記憶だからあやふやである。その家は、崖の下にあった。だから、表通りからは横に入っていた。表通りじたいが坂道になっていて、坂を上りつめたところにガス会社の大きなタンクが二つあった。あるいは三つだったかもしれない。とにかく坂道の下から上ってその真黒なタンクがのぞいてくると、ババやんのいる家にきたような気になった。子供の眼には目標で安心があるものである。  坂道の両側は品のいい|しもたや《ヽヽヽヽ》がならんでいた。その間に酒屋だとか雑貨屋だとか八百屋などがはさまっていた。静かな通りで、人はあまり歩いてなかった。三十年も前のころである。まして中国地方の海岸沿いの町では車もほとんど走っていなかった。  角二軒が板塀の家で、間のせまい路地を入ってゆくと石段が五つほどあって、その家の玄関になる。玄関は格子戸だったか、硝子《ガラス》戸だったかは忘れた。とにかく庭のあるほうの縁は全部硝子戸になっていた。全部といっても六枚くらいだろう。それでその家の広さが分るが、辰太にはずいぶん大きな家に思われた。自分の家はこんなに大きくはない。小さくて暗い。古くて、屋根が低い。両隣とはくっつき合って空地は少しもない。  その家の庭には池があった。鯉がいた。うしろの崖に繁った樹木がそのまま庭に下りてきたような感じで、池の縁に暗い茂みの多かったことをぼんやりとおぼえている。おぼろな記憶といえば家の中もそうで、何畳だか分らないが広い座敷とひどく狭い部屋と二つしか頭にない。しかも両方の部屋はかけ離れていた。だから、間にほかの部屋が二つくらいはあったのだろう。  辰太がその家に行くのは祖母のヨシを訪ねるのである。中国地方の言葉で、祖母のことを、ババやんと呼ぶ。辰太の声でババやんが顔をのぞかせ、遠慮そうに孫を内に入れる。狭いほうの陰気な部屋だった。祖母はその家で住込みの傭い婆をしていた。六十ぐらいだったろう。  辰太が行くと、祖母は菓子をくれる。隅の行李《こうり》の蓋《ふた》を開けて、チリ紙に包んだのを出す。駄菓子屋で売っているようなものとは違う。ババやんがこの家に置いてあるのをそっと取ってしまっているのだった。珍しい洋菓子で、ビスケットでも噛むと口の中に牛乳の臭いが満ちた。ここにくるのは、それが食べたいためもあった。ババやんは奥さんの足音を気にして、孫が口を動かし終るのを待っている。家に持って帰るのは別の紙包みで用意していた。これは見送りに出たとき、懐《ふところ》から出して、小遣い銭といっしょに路上で渡すようになっている。べつの紙包みの金は、おかんに渡せ、という。落すなよと何度も念を押した。  この家には奥さんとババやんしかいなかった。奥さんは、色の白い、ふっくらとした、きれいなひとである。いつも美しく化粧をしていた。あのころ、二十七、八であったろうか。派手な着物をきていた。奥さんはババやんを、おばさんと呼んでいた。子供がいなかった。旦那さんは遠洋航海の船乗りで、三月に一度しか戻ってこない。旦那さんが帰ったときは、ここに来てはいけないとババやんは辰太にいった。たいてい一カ月ぐらい、ババやんとの面会が禁止になった。だが、そのほかにはババやんといっしょに寝る晩もある。今から思うと、奥さんも傭い婆さんが孫を泊らせるのは本意ではなかったろうが、婆さんを使いやすいようにするため黙認していたのだろう。  辰太がその家に行くと、ババやんは、 「お父っつぁんは、どうしとるなら?」  と、訊いた。 「戻っとらん」  と、辰太は答えた。答えながらも気がひけた。父の平吉が家に帰らないのは一カ月もつづくことがある。二、三日居るかと思うとまた居なくなった。父には外に女がいた。それは八歳になれば何となく母親の様子で分る。父は請負《うけおい》師だったが、出入りの大工が母に父の女のことを告げているのを聞いたこともある。その大工も左官も、家によりつかなくなっていた。 「おかんは、どうしとるなら?」  と、ババやんは訊いた。この地方では、母親のことを、おかんと呼んでいた。 「おかんは、よその縫物をしちょる」  ババやんは溜息をつく。  六十にもなってヨシがよその住込み女中をしているのは息子の放埓《ほうらつ》のためだった。家に居られなくなったのは、裁縫の賃仕事をしている嫁にかかるわけにはいかなかったからだ。住込み女中なら自分のぶんだけでも口減らしになる。それに給金からは少しでも嫁に手伝いができた。  平吉はヨシの本当の息子ではない。ヨシのつれあいが生きていたころ、事情ある幼児として貰い受けて育てた。平吉もそれを知っている。辰太は孫でも血が通《かよ》ってなかった。が、ヨシは孫を可愛がった。額がひろく禿《は》げ上ったババやんの顔を辰太はよくおぼえている。そのころから腰がまがっていた。  ババやんは奥さんの使いで外に出て行く。遊びにきている辰太は、ババやんが雨の日、曲った腰で傘をさし、買物の風呂敷包みを下げてくるのを見る。ババやんは買物を濡らさぬよう風呂敷包みを胸にかかえこんで袖も腰から下もびしょびしょにして戻る。禿げ上った額からは雨と汗が滴《しずく》になって流れている。ババやんは可哀想だと辰太は思った。こんな年寄りを使って遊んでいる奥さんが好きでなかった。実際、ババやんは少しも身体を休めなかった。奥さんが呼ぶか、自分で立ってきて障子の外から用事をいいつけないときでも、こそこそと用事をしていた。それが、遊びにきた孫のための奥さんへの遠慮だとは辰太は知らなかった。ババやんは用事のないとき坐って雑巾《ぞうきん》を縫った。そういうときのババやんは落ちついていて辰太は好きだった。雑巾の縫い方はていねいで、糸の縫目の模様など学校の手芸品のようである。ババやんはそれを何枚もつくっていた。  自分の家から、崖下の家まで子供の足で一時間近くかかった。はじめは途中が心細かったが次第に馴れた。道中の真ん中あたりのところに市場がある。人で混雑している。大きな醤油《しようゆ》屋があって店の中から醤油の臭いがしていた。この市場の中には意地の悪そうな子がひとりいた。そこを過ぎると、急に静かな坂道にかかる。  辰太は小学校から帰ると、 「おかん、ババやんのところへ遊びに行ってもええかん?」  と訊く。一週間に一度ぐらいだった。縫物をしている母は、すぐには返事をしなかった。ようやくのことで、 「すぐに帰らんといけんどな。それから、もう小遣いは要《い》らんけん、ババやんの好きな物を食べなさい、というておくれ」  と、細い声でいった。針を動かしながらうつむいているので、声も低かったかもしれないが肩も淋しそうだった。首筋に後毛《おくれげ》が乱れていた。  帰ると、その母が訊いた。 「ババやんは、どうしとるなら?」 「うん。働いちょる」  母は黙っていた。  が、母にはいってない内緒ごとが辰太にはあった。父の平吉がババやんに小遣いをせびりにくることである。辰太は一度、ババやんのとこに遊びに行っていて、その父の来訪にでっくわしたことがあった。 「あ、おとっつぁん」  と、辰太が歓声をあげると、父はびっくりして手を横に振った。父親は、ぞろりとした安|銘仙《めいせん》の着物を着ていたが、子供の眼にもその絹物はくたびれていた。父はその姿で、ババやんが居るなら、ここにちょっと呼んでくれとあいまいな笑顔で辰太に低くたのんだ。奥さんに知れんようにな、と父は子に注意を忘れなかった。  奥さんは奥の座敷で三味線《しやみせん》を弾いていた。ババやんは、辰太の報らせで黙って行李のほうに行き、蓋を開けて何かを出した。菓子包みではない。おとなに菓子をやるわけはなかった。ババやんは玄関の外に立っている父に何か叱言《こごと》をいっていた。父は疲れ切った顔でニヤニヤと笑い、ババやんの手から取るものを取ると、辰太に、おかんにはいうなよ、学校には行っとるか、と序《つい》でのように訊いて立去った。ババやんも、辰太に、おとっつぁんの来たことは、おかんにいうなよ、といった。子供心にも父親の後姿に落ちぶれようが分った。  辰太は、この家の旦那さんに一度だけ会ったことがある。ババやんにつれられて奥の座敷の敷居ぎわになっている廊下に正座させられた。旦那さんは食卓の前で飯を食べていた。そばに奥さんがいて、こっちをむき、旦那さんに何か辰太のことをいった。旦那さんは白っぽい着物をきていたから浴衣《ゆかた》ではなかったろうか。そういえば奥さんは団扇《うちわ》で旦那さんに風を送っていたようである。開けた硝子戸の向こうには夕日の当った庭があったかもしれない。頭の禿げた、大きな体格の旦那さんは赭《あか》ら顔をちょいと辰太にむけただけで、すぐ面倒臭そうに視線を逸《そ》らせた。あの表情は今でもはっきりと眼前にある。長じてから、違う人に同じような視線を何度もうけてきた。奥さんは、辰太の横に縮んだようにかしこまっているババやんに、もう退《さが》っていいわよ、といった。たしかにそういう意味の言葉を奥さんはいったように思う。ババやんは辰太におじぎをさせ、廊下を中腰になってさがった。もうよい、退りおろう、という台詞《せりふ》の出る芝居を観るたびに、辰太は奥さんと旦那さんが二人で上座にならんでいる光景を想い出す。そうして、タスキがけで着物を縫っている母の背中がその裏に浮んでくる。  奥さんだけにおじぎをしに行くことがある。それは辰太がババやんの部屋に泊る晩だった。おやすみなさい、と挨拶に行く。奥さんは本を読んでいて、ああ、という。黙っているときもあった。  母は、今から思うと、よくできた女だった。できすぎていたくらいである。夫が女のもとに走っても、ついぞ夫と大きな声でいさかいをしたことがなかった。少なくとも子供のころの辰太にはその記憶がなかった。母は農家の生れだが、読み書きがよくできた。父の手紙の代筆は、ほとんど母がした。料理も上手だった。清潔好きで、いつも狭い家の中は几帳面《きちようめん》にかたづいていた。あまりに几帳面にすぎた。それに、父によく尽した。世話を焼きすぎたともいえる。そのためか、父が外でつくった女は、だらしない性格だった。  辰太の記憶では、父がたまに家に戻ってくると、母はいそいそと酒屋や魚屋に走った。父が家に入ってきて戸口を閉めようとしても、母は制止し、土間にとび降りて自分で閉めに行った。家にいて、ヨコのものをタテにもしない父の横着な性質は母が育てたのだ。父が戻ると、その母は衿垢《えりあか》だらけの銘仙の着物を、洗いざらしでも用意した絹物の着物に替えさせた。父がぷいと家を出て行ったあとは、その脱いだものをほどいて自分で洗い張りをし、きちんと仕立て直した。  請負師という誇りからか、それとも商売上の必要からか、父は決して木綿ものを着ようとはしなかった。たとえそれが安銘仙でも絹物だと思って着ていた。それがくたびれてくると形が崩れ、潮垂《しおた》れてくる。衿や裾のほうに垢光りがする。辰太には着物がまるで父と同じに見えるのだ。      2  父の平吉が家に戻ってくるのは、あとで辰太が思い当ったことだが、二つの場合があったようである。  一つは、女房から金を取り上げるためだ。養い親とはいえ、他家の住込み女中をしている老母のもとに小遣い銭をせびりに行くくらいだから、裁縫の賃仕事で何とか母子で食いつないでいる女房から金を取り上げるのは当然のようだった。父が家に戻ってくるたびに、母はきまってあとで米屋に借りをつくっていた。  もう一つ、父が帰宅するのは女と喧嘩したときのようだった。女との喧嘩の原因は金銭の不自由から起っていたらしい。平吉は、請負師仲間では古顔のほうだったが、そのころは得意先の信用も無くしてしまい、仲間からも相手にされず、使っていた大工や左官や建具屋からも見放されていた。わずかに古い縁故の得意先を回って仕事をもらい、それを他の業者に斡旋《あつせん》して口銭《こうせん》をとるといった周旋屋になりさがっていた。もとより諸方に信用を失った立場だから、それでもうまくいくはずはない。父はあせって、蔭では博奕《ばくち》もしていたようだった。  女との喧嘩で、父の首筋や二の腕には爪で引掻かれた傷がほうぼうにあった。これだけは、父も母に隠そうとしていた。もちろん母の眼にはふれていたのだが、母は何もいわなかった。かえって辰太が黒いカサブタがついて周囲が膿《うみ》をもったように赤く腫《は》れ上った傷を不審がって父に訊くと、母のほうがあわてて、人にはいうな、と口どめした。女はヒステリーで、金が窮屈になると、父を苛《いじ》めていたようである。父が、母のもとに戻ってくるのも、老母の奉公先に行くのも、その女の虐待から脱《のが》れたいためらしかった。女はこの町に来た流れ者だというのを辰太はあとで知った。  あるとき、父は母の髪をつかんで畳に引き据え、握り拳《こぶし》で何度もつづけさまに殴っていた。母は畳にうつ伏せになって無抵抗のまま嗚咽《おえつ》を耐《こら》えていた。たしか、片手は手枕をするように頬の下に曲げていたように思う。さすがに父は辰太が入ってきたので、知らぬ顔で母を放したが、母は顔をあげて辰太に、なんでもないけん、おとっつぁんのことを人にいうちゃいけんぞな、といった。乱れた髪の中で真赧《まつか》な、くしゃくしゃした顔が辰太には印象に残る。  父が母を殴りつけるのは一再《いつさい》ではない。それは女との間がうまくいかないときか、零落の境涯に自分で腹を立てているときかだった。落ちぶれたのは、女のためだから、その女との仲が思うようにいかないと、癇癪《かんしやく》が自分に破裂してくる。その鋒先《ほこさき》が脆弱《ぜいじやく》な皮になっている母に向うのだった。  ここに皮という言葉を使ったけれど、母のはそんなに薄い皮だったのだろうかと辰太はいまは疑っている。その性質は破れる皮ではなく、また、叩《たた》けばすぐに弾《はじ》き返ってくるピンと張った皮革でもなく、いわばゆるやかに貼った革であった。叩いても手応えがない。が、へこんだのがじんわりと底の弾力をもってもと通りに戻る。そういうこっちに苛立ちを感じさせるような抵抗が母にあった。今になってその想像がつく。  うす暗い部屋の、一方だけに窓があってそこから外光が入る下で、母はタスキがけで縫物をした。裁縫には腕の立つひとだった。いつも近所から山のように仕立ものを持ちこまれていた。このごろは田舎でも女がみんな洋服になっているが、辰太が九つのころはまだよそゆきには和服が残っていた。夜になると、裸電球に赤味を帯びた灯がつく。その下で母は夜中の一時でも二時でも仕事をした。物さしが軽く音を立て、小鈴が反物の上を微かに鳴る。小鈴は、もう古くなって黄ばんだ牛の骨か何かのヘラの頭に付いていた。ヘラは宮島土産で、鳥居と鹿と紅葉の絵があるのだが、半分は剥げていた。布で坊主頭にした針山には待ち針が無数につきささって、赤や青や黄の小さな珠を群がらせていた。これが、他人の美しい着物を始終預かっている母に持たされた自己の色どりだった。同時に、辰太の共有でもあった。小さな色の粒は窓の下でも裸電球の下でも宝石のように五彩に輝いた。夜、寝ていると辰太の耳にヘラの鈴が鳴る。寒行《かんぎよう》には女たちが門口に回ってくるが、その御詠歌を聞くようだった。四番札所は大日寺、五番札所は地蔵寺、賽《さい》の河原に積む石は、一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため。かぼそく曳く声に針山の五彩の小珠が虹になって飛んだ。  辰太は、黒いガスタンクの見える坂道を一週間に一回は行った。旦那さんが遠洋航海から戻ってくるとき、ババやんは、もう来ちゃいけんどな、といって孫のくるのをとめる。それがひと月ぐらいはつづく。辰太が旦那さんを見たのは、もう退ってよい、と奥さんがこっちを見ていったときの一度きりだった。ババやんとの面会禁止が解けた日は、外国の銅貨が三枚もらえた。旦那さんが置いて行った土産で、旦那さんは船長ということだった。  寒い風が吹く日、ときどき霰《あられ》が走って落ちた。ババやんは曲った腰で市場に使いに行く。奥さんは三味線をひく。奥さんは、ババやんがいようといまいと、辰太にはあまり口をきかなかった。近づきもしなかった。  とくに辰太がババやんの部屋に泊った晩は冷たいようだった。そのためババやんはよけい奥さんに気を使う。が、子供の辰太にはババやんのところに寝に行くのが生活の変化だった。孫の可愛いババやんは、奥さんに気をかねながらも孫を泊める。  泊った朝は、辰太はババやんに手伝って雑巾で廊下や縁を拭いて回る。雑巾はババやんの手づくりで、分厚く、水に濡らすと重くなる。糸目が飾り模様のように縦横きれいにつけられている。そういうのをババやんはいくつも持っていた。  奥さんに遠慮しているババやんは、孫の雑布がけを奥さんの眼に入れようとする。それでわざと奥さんのいる部屋に近いほうを拭かせた。奥さんは見て知らぬふりをしている。ご苦労だともいわぬ。それでもババやんには、とにかく泊った孫が雑巾がけするところが奥さんの目にとまれば、いくらかでも気が済むのだった。  ある日、冷たい風が地面を舞うなかに、父が立っていた。潮垂れた着物の前裾を翻《ひるがえ》している。いつもよりは蒼い顔をしていた。ババやんはいま居らん、と辰太がいうと、いつ戻るのか、と父は笑いもしないで訊いた。母に向うときのように怕《こわ》い眼をしていた。いつ戻るか分らん、と辰太は半ば怯《おび》え、半ば反抗して答えた。  父は、家の中から聞えてくる三味線に耳を傾け、いま奥さんはひとりか、と訊いた。ついぞ父がそんな質問をしたことがないので、辰太は妙な気がしたが、黙ってうなずいた。三味線のひとり稽古《げいこ》をする奥さんは不眠症だった。 「旦那さんが、この前戻ってきたのはいつか、おまえは知らんかの?」  父はそう訊いた。 「知らん」 「そうそう、お前は旦那さんからいつも土産の外国の銅貨をもらうじゃろ? この前は、いつ、もらったんなら?」  帰った旦那さんが船に戻ったのは一週間前だった。というのは、ババやんにはひと月ほど会えなかったが、今日が久しぶりで、早速に銅貨をもらっているからだった。銅貨には王冠をつけた西洋女の横顔だとか葉のついた木が輪になって浮き出ていた。 「一週間くらいか。うむ」  父は思案するように首をかしげていたが、あたりを見まわすと、玄関ではなく、横手のほうに下駄の音を忍ばせるようにして入って行った。そのへんをうろうろしているので、辰太は父がババやんの帰りをそんな時間消しで待っているのかと思った。父がそこを歩き回っていても、奥さんの三味線は絶えなかった。父はそうして家の格好を眺めるようにし、また、ときどき、外のほうをのぞき見るようにした。辰太は路地から戻ってくるババやんの姿を父が待っているのかと思った。屋根の上には灰色と黒の斑《まだら》な雲がひろがり、そこから冷たい風が落ちていた。  父は、ババやんが戻らんからおれはもう帰るけんな、ババやんにはおとっつぁんが来たことをいわんでもええぜ、と辰太にいった。そうして思いついたように、だらりとさがった袂《たもと》から小銭をとり出して、さあ、これをお前にやるけん何か買え、といった。こういうことはいままでなかったので、辰太はあわてた。 「おとっつぁん、いつ、家に帰るかん?」  辰太はちびた下駄で低い石段を降りてゆく父の背中に問いかけた。父は、わざわざあと戻りしてきて、 「大けな声を出すな。お父っつぁんは仕事で忙しいけに、もう少し戻れんのじゃ。おかんにも、おれがここに来たことはいうなよ」  と、睨《にら》みつけるようにしていった。  三十分ばかりの違いで、ババやんが凍った手に買物を入れた風呂敷包みをかかえて路地から姿を現わした。ここから市場までは相当な距離がある。腰の曲っているババやんは休み休み歩いているのだった。鼻の頭を真赧にし、子供のように洟水《はなみず》を垂らしていた。ババやんが近所で買物をせずに市場まで行くのは、薬屋に寄って奥さんの薬を買ってくるからだった。  辰太は、ババやんに父の来たことを黙っていた。それで、自分の気持をごまかすように、小さいほうの部屋でババやんが風呂敷包みを開くのをいつもよりは面白そうにのぞいていた。  買物の中には、赤い色の小函があった。奥さんは、夜眠れないのでこの薬を飲むのだと辰太はババやんから聞いていた。いまから思うと、それはアドルムだったのだろう。当時の睡眠薬だったら、そう沢山は種類がない。  奥さんは、なるべく薬を飲まないで眠る習慣をつけようとしている。そのため、夜、奥さんの部屋の障子が暗かったら、薬を飲んでない。電灯を消して自発的な睡眠に努めているからだ。うす明りがついていたら、枕元の電灯《スタンド》が豆電球になっていて、薬を飲んでいるときである。奥さんは眠り薬を飲んで眠るときは、部屋の中を闇にしておくのが怕いそうである。辰太は、ババやんからそう聞いていた。泊った晩に、辰太もその障子にうす明りのある無しは見ている。      3  二週間過ぎたとき、辰太はババやんのところに泊った。朝、いつも早く起きるはずの奥さんはまだ出てこなかった。昨夜は、奥の部屋の障子がうす明りだった。奥さんは薬を飲んでいる。薬を飲んで眠ったときの朝は、奥さんの起きるのが少し遅い。  ババやんは、朝ご飯のおかずを買いに近所に行かねばならない。奥さんの好物は、|おから《ヽヽヽ》(豆腐の滓《かす》)と、|もずく《ヽヽヽ》(海草)である。これは毎朝買わねばならない。ババやんは屈んだ背で出て行くとき、孫に、奥さんはまだ寝てなさるから、あんまり大けな音を立てるなよ、といって白い息を吐きながら寒い外に出て行った。路地には霜が降りていた。  ババやんが出て行ったあと、辰太は奥さんの部屋に入った。奥さんは、昨夜見たときのまま仰向きに横たわっていた。その開いた口の中から、詰まっている雑巾を辰太は引張り出した。ちょっと力が要った。厚い雑巾の下半分は奥さんの吐瀉《としや》物で白くよごれていた。  もう一枚の雑巾は鼻にかけてある。昨夜は濡れていたので、水気を含んだゴムみたいに奥さんの形のいい鼻の孔《あな》に吸いつき、しっとりと蓋をしていた。睡眠薬を飲んでいる奥さんは、口の中に雑巾を押しこんだとき、苦しそうにもがいたが、手足には力がなかった。鼻に、水で重い雑巾をかけ、上から手で押えていると、奥さんの頭は枕からはずれて落ちただけで、間もなく動かなくなった。口に雑巾を詰めて押しこむときは、裁縫に使うヘラをつかった。ただ、母が使っているような古い宮島土産でもなく、小鈴も付いてなかった。ヘラは自分の小遣いで市場にある小間物屋で買った。が、そのヘラを棒のようにして雑巾を奥さんの口に押しこむとき、母のものを使っているような気がした。奥さんが、まだ見たこともない父の女にも思えた。奥さんが三味線をひいているせいかもしれなかった。  奥さんをそんなふうにする気持は何だったのだろうか。これでやっとババやんがひどい目に遇《あ》っている家から、自分の家に戻れるということもあった。タスキがけで近所の縫物をしている母と、奥さんとの比較がどうもあったようである。その比較の中に濡れ雑巾を押しこんだといえなくもない。もう一つ、はっきりした理由があった。これは、あとで、その通りになった。日ごろから、あまり口をきかなかった奥さんだから、蒲団からずり出た身体をぐったりとさせ、モノをいわなくなっても、辰太はそれほど違ったひとには見えなかった。  奥さんから雑巾をとり出しても、その口はあんぐりと開いたままだった。柿の種を割ったような恰好のよい両の鼻孔も自由に空気を吸いこむように見えた。その鼻から頬のへんは昨夜よりだいぶん乾いていた。  辰太は雑巾二枚をさげて台所に行き、雑巾バケツの水で洗った。水は白く濁ったが、それは裏の溝に捨てた。斜面に掘られている溝は勢よく水を下に流した。最後にきれいな水を入れて、雑巾を浸し、二枚重ねて縁側を拭きはじめた。  ババやんが腰を曲げて戻ってきた。おお、よう働いてくれるのう、とババやんは辰太の奮闘をほめた。そうして、買ってきた|おから《ヽヽヽ》と|もずく《ヽヽヽ》とを台所に置くと、奥のほうを見やって、奥さんは今朝起きなさるのがいつもより遅いのう、と呟いた。  父の平吉が警察に捕まったのは、その二日あとだった。奥さんが殺された晩、その家のまわりをうろついていたのを見た者がある。その人相から知れた。そんな寒い夜中でも、ぞろりとした絹物でうろつく男は、そうざらにはいない。  平吉は一年ほど留置場や未決で暮したあと、裁判で無罪になった。被告は罪状を終始否認し、物的証拠もなかった。金に困ってその家に入るため、その晩|徘徊《はいかい》していたことは被告も認めたが、裏口からは侵入したが奥に入る決心がつかずに引返したといった。これこそ、辰太が奥さんをああいうことにした考えの一つだった。父は、必ずこの家に忍んでくる。旦那さんが戻ったときは奥さんに金がある。旦那さんが船に乗って行っても、しばらくは金がこの家にあると思っているだろう。寒い日に来た父の言葉や様子からすると、いつかはここに侵入すると思った。奥さんが生きていては、父が刑務所に行くようなことになる。あれは、親父の先手を打って親父を防禦《ぼうぎよ》したのだ、と辰太は長じてから子供心の動機を分析している。  九つの子供の犯行とはだれも思わなかった。当夜、住込みの傭い婆さんと、泊りにきていた小学校三年生の孫に何か物音を聞かなかったかと警察が訊いた。傭い婆さんも九つの子もよく眠っていて何も分っていなかった。  外部からの侵入跡と逃走跡とがある。だから内部の者ではない。六十歳の腰の曲った婆さんに、たとえ睡眠薬を飲んでいたところで、体力のある三十女が殺せるとは思えなかった。第一に、窒息死とは分っているが、どんな方法で死にいたらしめたか警察には判断ができなかった。その凶器に見当もつかなかった。凶器らしい遺留品は、いくら現場を捜索しても見当らない。  侵入跡と逃走跡は、被告の平吉がつけたものである。が、彼は裏口から侵入したものの、奥の座敷には入らずに、途中で逃げ帰ったと申立てている。自白もなく、物証もないのに、検事が起訴したのは、その侵入の事実のためだった。だから、平吉の無罪は証拠不充分による理由であった。  父の平吉は、それから二年後に死んだ。一年の未決生活の間に女は逃げ去っていた。父の死水は、母がとった。できすぎた妻だった。父は母に最後まで窮屈な思いをさせられて息をひきとった。  母は父より九年よけいに生きて死んだ。辰太が二十一のときだった。そのころは小学校だけで町工場の見習い工になり、十八のときに一人前の鋳物《いもの》工になった辰太の稼ぎで、暮しもかなり楽になっていた。  母が死んだとき、今は使わなくなった針山とヘラがきちんとしまわれていたのが出てきた。針山にはまだ色とりどりの頭のついた待ち針がそのまま刺してあった。ヘラは、ところどころが刃こぼれしたように欠けていた。うす黒くなったそのヘラの柄からは、宮島の赤鳥居も鹿も紅葉もことごとく剥げ落ちていた。黒くはなっているが小鈴はそのままに可愛い音を立てた。母は几帳面にこういうものまでちゃんと取っておく女だった。あまりに几帳面に過ぎた。  だが、母も最後まで知らぬことがある。もう一つ、新しいヘラを辰太がババやんから貰った小遣い銭で買い、だれも知らないうちに海岸から沖にむかって抛り投げたのを。──小鈴のついたヘラと五彩の待ち針の群れた針山は母の棺の中に入れた。霊柩車に運ぶとき、その動揺からか棺の中で鈴の音がかすかに聞えた。一つ積んでは父のため、二つ積んでは母のため、と辰太は胸の中でうたった。  祖母は七十六で死んだ。辰太が二十五のときだった。老衰で死の前の三年間は眼が見えなくなっていた。辰太は工場に出ている間は、近所のおかみさんに金を出して世話をたのんでいたが、工場から戻ると、彼が祖母の食うことから下《しも》の世話を全部みた。銭湯には、しまい風呂に背負って通《かよ》った。弱って銭湯にも入れなくなると、湯でその身体を拭いてやった。  祖母はよく眼を閉じて座敷の隅に背を曲げたまま坐っていた。両手はいつも膝の上で組んでいた。こんな行儀のええ婆さんの世話は初めてだと近所のおかみさんはいった。それでも工場から戻った辰太の声を聞くと、両手で畳の上を掻き、彼を慕うように匍《は》い寄ってきた。晩年は、色の白い老婆になっていた。  祖母は、奥さんのことは一口もいわなかった。三年間もそこに働いていたのだから、何か昔の思い出話に洩らしそうなものだったが、ほかのことはいっても奥さんのことは何も言葉にしなかった。辰太は、ババやんがあのことをうすうす気づいているためではないかと何度か思ったことがある。しかし、殺された女主人のことだからいいたくないのだろうとも解釈していた。  だが、ババやんが寝こんで昏睡状態になる五、六日前、工場を休んでみとっている辰太のほうをむいてかすれた声を出した。 「ババやん、何かな。おれはここにおるぜ」  辰太はその手をにぎった。 「辰太や。わしが死んでも、あの世からお前を守ってやるけんのう。ええか、守ってやるけんのう。……」  耳もとに入ってくるババやんの低い声はいっていた。 「ババやん。ババやんはまだ死にやせん。あした、気分がよかったら、久しぶりに身体を湯で拭いてやろうな」  辰太は大きな声を出したが、ババやんには聞えぬようだった。 「辰太。ええかや。お前を守ってやるけんのう」  と、ババやんは咽喉《のど》をごくりと鳴らしていった。 「辰太や。お前を守ってやるけに……もう、悪いことはするなや」  辰太は死相の浮んでいる盲目の老婆を見つめた。──ババやんは、知っていた。      4  人殺しの経験が幼時にあったというのは、長じてから同じ経験をくりかえすような要素になるのだろうか。それとも精神的にそのように形成されているのだろうか。未経験では容易に踏みこめないことでも、遠い過去に経験をもっていることが実行の滑車の役目になるのか。精神分析の専門家だと医学的な解釈を下せるかもしれない。  もっとも、その要素はあっても動機に出遇わさないと表面に出ることはない。病気でいえば、陰性のまま発病しないで終るようなものであろう。動機に接触する運命になったのは不仕合せである。  妻をふり捨てたい気持は、辰太が結婚してからわりと早い時期に起った。だが、これは簡単ではなかった。離婚は妻のほうが承知しないだろう。まだ、一度も口に出したことはないが、別れる女ではなかった。口に出せないのは、それほど妻に欠点がなかったからだ。  二十七のとき、辰太は東京にきて小さな町工場で働いた。下請のまた下請工場で、工員は四十人足らずだった。富子はその工場主宅の女中をしていた。彼より一つ上で、新潟県の海岸地方からきていた。大柄な女で、眉のうすい、頬骨の張った顔だった。  いっしょになってから三年後に別な町工場に移った。そのころから辰太は富子と別れたくなった。べつに好きな女ができたからではなかった。とにかく富子と暮しているのが気詰りになったのだ。非の打ちどころのない女房というのは万事が面白くない。よく尽してくれる。年上だから尽しすぎる。  三十を越すと、一つ年上でも女と男の差は急速に開いてゆく。女は老《ふ》け、男は若くなってゆくようにみえる。辰太は富子といっしょになったのを後悔しはじめた。ほかに好きな女ができたわけではないが、富子と別れたら、好きな女が得られそうな気がした。いっしょになっている限りは、その機会に恵まれそうになかった。女も相手にしない。  富子に、小料理屋の女中になるようにすすめたのは、特別な計画があってのことではなかった。池袋の裏通りを歩いているときに、その小料理屋の前にお座敷女中入用の札が下っているのを見て思いついたのである。富子と離れる時間のある生活をしていたら、少しはこのやり切れない思いが救われるかと考えた。  富子は一も二もなく承諾した。そういう女だった。辰太のいうことには少しも逆らわなかった。それだけでなく、いつも彼が望んでいることを先回りして必要以上に世話する女だった。男に余裕を与えなかった。もちろんそれは親切から出ているのだが、男からするといつのまにか自分がひきずられてゆく立場になっていた。  富子は料理屋に行き話をきめてきたといった。固定給は月に一万円だが、客からのチップが少なくないから、新規でも五、六万円にはなるだろう、十年もつとめている女中は月平均十万円ぐらいにはなっている。五、六万円だとずいぶん助かるわ、わたしも遊んでいて心苦しかったの、わたしの収入はあんたの洋服や身支度を揃えるものに使い、それで剰《あま》ったら休みの日にはおいしいものを食べに行きましょう、とはずんだ声でいった。家計の足《た》しだけが彼女の頭にあって、辰太の実際の希望までは察していなかった。いつも亭主を引張ってゆく妻にありがちな過信だった。  その小料理屋は表通りからみると小さいが、奥があって二階と階下とで座敷が六つある。女中は十人ほどいる。勤めには早番と遅番とがあって、早番は午前十時までに行って炊事場で板前の仕込みの手伝いをする。遅番は午後三時までに出ればよい。隔日交代である。カンバンは夜の十時半だが、飲み客相手なので十一時をすぎる。富子はそういう条件を全部聞いてきた。  富子がつとめだして二カ月をすぎたが、少しずつ変化はあった。彼女は化粧し、派手な着物をきた。辰太は工場からさきに帰って、富子が用意している晩飯を食べて寝る。十二時近くに戻る富子に起されて、折詰にした料理を食べさせられる。料理は店であまったものや、客が箸をつけなかったものである。富子は酒の臭いをさせて戻る。知らなかったが、新潟育ちのせいか、富子は酒が強かった。その臭いを消すために富子は何度も含嗽《うがい》をした。近所が寝静まる夜更に、台所で咽喉に水を鳴らす音を聞いていると、辰太は富子が違う女にみえてきた。  月に五、六万円にはなるはずだったが、富子がもらって帰る金はそんなにはならなかった。三万円がやっとだった。まだ経験が浅いせいもあったが、十万円以上の収入になるには、お馴染《なじみ》さんという特定の客をつかんでおかなければならないという富子の話だった。お馴染さんにするにはかなりな冒険を必要とするようだった。男客はほとんど女に野心を持っている。富子は、先輩女中の話を辰太にいってきかせる。何人もの上客を特殊な関係でつないでいる女、ひとりの男に惚れていてほかの客にも媚《こび》を売る女、朋輩《ほうばい》の客を身体を張って取っている女。だが、そこまでは行けない女中もいる。客のいうことを適当にはぐらかして泳ぐのである。最後には執拗《しつよう》な客は棄てることにするのだが、その瀬戸際までは調子を合わせる。  そんなのを見ていると浅間しいわ、と富子はいった。浅間しいというのは彼女がその仲間にいないということである。富子に誘惑があろうとは思えない。そんな魅力のある女ではない。いくら化粧しても醜い顔はどうしようもない。せいぜいが、座敷でほかの女中のひき立て役になっているだけであろう。そういう存在に客からのチップが入るわけはなかった。  が、三万円の収入でもたすかった。富子はそれで辰太の衣服を整えた。自分のものはほとんど買わなかった。店に着てゆくのも、若いときの洗い晒《ざら》しである。流行遅れの柄だから朋輩に莫迦《ばか》にされているにちがいなかった。富子はそれで平気だった。自分よりも亭主を大事にする。忍従して亭主を大事にするところは、辰太の死んだ母親に似ていた。亭主に世話を焼きすぎる。辰太は、父親が外に女をつくった気持がいまになって分る気がした。  女と別れたいなら、べつに殺すことはない。女房が親切すぎて別れ話が切り出せないなら、彼女を虐待して別れさせるようにしむけることもできる。が、女房の過剰な親切と世話に抑えられた男は反抗ができなかった。もう一つの方法は、彼が女房から黙って逃げることである。が、それでは自分が食う道を失う。中年になって、他にどんな職があるだろうか。鋳物工場はほかにもある。が、どこに逃げようと、日本国じゅうの鋳物工場をさがして富子が追ってきそうだった。鋳物の熟練工だというと職種が限定される。家出人の捜索願をうけた警察は、全国の鋳物工場に問合わせて忽《たちま》ち所在を知るにちがいなかった。逃亡もできなかった。  別れるなら、長い時間と面倒な手間をかけても普通の方法ですべきであった。だが、辰太の場合はそれを択ばなかった。そこに幼時の経験が人道的にも法律的にも違背する方法に踏み出す滑車になったと解釈することもできよう。≪未経験では容易に踏みこめないことでも、遠い過去の経験が実行を安易にするのだろうか。≫その精神的な要素の問題は、精神医学者の分析によって、医学的用語に満ちた報告から聞けるかもしれない。ここでは警察用語の多い訊問調書でその行動を窺うしかない。      5  調書によると、辰太が富子を殺そうとして他の場所に連れ出したのは三度あった。最初は房州の海岸、二度目は青梅の奥であった。その前に、彼は予備工作をした。近所の者に、富子が働き先の小料理屋で好きな男ができたといっておいたことである。それは愚痴のかたちで宣伝された。こういうことは、当人にむかっては確認しにくい。だれも富子に対して辰太のいうことを伝えて、確かめるものはなかった。興味のある悪い噂は、いつも本人を真空の位置において周辺に波及してゆく。それでなくとも、化粧をして派手な着物で出て行き、夜中の零時や一時ごろに家に戻ってくる富子に近所の主婦の反感があった。働いているところが男客相手の商売である。浮気の噂は本当だろう。これは、あとで警察ですらそう信じたから無理はなかった。  二度目のとき、青梅の奥のある崖の上から富子を突き落すつもりだった。そのつもりで、富子とはいっしょに家を出ずに新宿で待ち合わせた。近所の人には自分といっしょにどこかに行くとは絶対にいうな、と富子に口どめした。こうすれば、富子がほかの男と逢引きに出かけたようにみえる。  崖の上からは富子を突き落せなかった。 「突キ落ス心算《つもり》デシタガ、崖上ノ道ヲ歩イテイルトキニ、人ニ出遇ッタノデス」  と、辰太は訊問に答えている。 「先方モ男ト女連レデシタ。私達ヨリ若クテ、男ハ二十七、八、女モソレ位デシタ。向ウハ草ノ上ニ坐ッテ居マシタ。富子ハソレヲ見テ、脚ガクタビレタカラ、ワタシタチモ此処《ここ》デヒト休ミシヨウト云イ出シマシタ。私ハ困ッタナアト思イマシタガ、仕方ナクソノ男女ノ近クニ坐リマシタ」  男女は夫婦ではなく、恋人のようだった。富子がその女のほうに話しかけたので、女も応じて、しばらく女どうしの話になり、先方の男もそれに加わった。辰太は、困ったことになったと思ったが、仕方がなかった。 「先方ノ女ハ『バー』ノ『ホステス』ヲシテイルト云ッタノデ、富子ハ『私ハ池袋デ小料理屋ノ女中ヲシテイル。バーハ収入ガ多クテイイデショウ』ナドト云ッテイルノデ、コレハ困ッタコトニナッタト思イマシタ」  それで、その日は計画を中止したのだった。最後に決行したのは、一カ月経ってからだった。同じ方法によって新宿で富子と落合い、青梅の奥にもう一度行った。 「隙ヲ見テ十メートル位ノ崖カラ富子ヲ突キ落シマシタ。下ニ降リテ行ッテ見ルト富子ハ顔カラ血ヲ出シテ倒レテ居マシタ。私ハ富子ガ生キ返ルカモ知レナイト思イ、大キナ石ヲ持ッテ来テ、富子ノ頭ヲ殴リ、完全ニ殺シマシタ。附近ハ山林デシタ。私ハソコニ穴ヲ掘ッテ、富子ノ死体ヲ埋メテ帰リマシタ。  翌日、私ハ富子ノ勤メテイル池袋ノ店ニ行キ、ソコノ女主人ニ会イ、昨日カラ富子ガ家ニ戻ラナイガ、コチラデ事情ガ分ラナイダロウカ、ト訊キマシタ。女主人ハ知ラナイト答エマシタガ、ヒドク心配ソウナ顔ヲシテイマシタ。私ガ、コチラニ来ル客ト富子トガ仲ヨクナッテ家出シタノデハナイカト思ウト云イマスト、女主人ハソノヨウナコトハ富子サンニ限ッテナイト答エマシタガ、カナリ狼狽《ろうばい》シテイル様子デシタ。ソノ顔付カラスルト、富子モ客商売ニヨホド馴レテキテ、オカミサンニハ富子ノ相手ラシイ男客ニ心当リガアル風ニミエマシタ」  辰太は一週間くらい、富子が帰ってくるのを待つふうをした。その間に、彼女が目星《めぼし》いものを持ち出して家出したように近所にいいふらした。  日ごろから愚痴にかこつけて富子に愛人ができたように、近所の人にいってあったので、近所では富子が好きな男と逃げたように思いこんだ。この場合、彼女が小料理屋のお座敷女中をしていたことが何よりその推定の助けとなった。堅気な勤めをしていない女に、主婦たちは常から偏見を抱いているものである。たとえ、富子が日ごろ辰太に親切な女房と分っていても、外見と心とは違うということになる。水商売の女に対する素人女の偏見は、とくに亭主持ちの女にとっては、悪意に近いものになる。近所では、富子が辰太の留守に愛人のもとに走ったという推察を牢固なものにした。  近所の主婦たちが辰太にすすめて、警察署に捜索願を出すようにさせた。  辰太は所轄署に行った。家出人捜索願は防犯係というのが窓口だった。係官は、家出の事情をひと通り辰太に訊いた。 「料理屋のお座敷女中をしていたんだね?」  係は富子の職業を聞いたとたんに熱意がさめたような顔をした。 「働き先で、好きな男ができたのじゃないかね? そういう素振りはなかったかね?」  向うのほうから訊いてきた。水商売の女には、警察も近所のおかみさんと同質の偏見を持っているようだった。  辰太は、そういえばこの三カ月というものはどうも富子の素振りが違っていました、万事が急に冷たくなりました、と夫婦でなければ分らない機微についての変化を述べた。 「相手の男がどういうのか心当りはないかね?」 「心当りはありません。私も、富子にいろいろ訊いたのですが頑固にいいませんでした。しまいには、私が男のくせに焼モチがひどいとか、甲斐性がないのに一人前の口をきくとかいって私を罵っていました」 「そんなふうでは、夫婦喧嘩が絶えなかったろうね?」 「富子が店から戻ってくるのがいつも夜中の一時ごろですから、私も気を回します。それで嚇《かつ》となることが多いのです。店をやめろ、と何度もいったのですが、富子は店をやめたくないといって私に反抗しました。店をやめると、客できている好きな男に会えなくなるので、やめたくないのだと私は富子の気持を考えてみたりしました」 「奥さんが居なくなる前に、激しい夫婦喧嘩でもしたかね?」 「前の日ではありませんが、三日前に富子を畳の上に引きずって殴りつけました」  ──それは子供のころに見た父と母との記憶であった。母は父に髪を握られて畳に引きすえられ、うつ伏せになって嗚咽を耐えていた。片手を手枕するように頬の下に曲げていた。乱れた髪の中で、真赧《まつか》な、くしゃくしゃした母の顔をまだはっきりと憶えている。  係官はうなずき、辰太に住所氏名を書かせ、富子の写真はないか、といった。写真はあまり撮ったことがない。いっしょになったときの記念写真を提出した。六年前のものである。現在とは顔だちがかなり違っている。写真屋の修整もひどい。それに富子の特徴を記入し、家出当時の服装とか所持品とかを書き添えて提出した。彼女の勤め先も明記した。係官はそうした書類をざっと眺め、家出人捜索願を受理した。しかし、あまり熱心にそれにとりかかるふうにはみえなかった。 「できるだけ捜してみるが、防犯係もいろいろな事件を抱えて忙しいのでね。すぐに奥さんを見つけてあげられるかどうか分らない。家出人捜索願が出ているのは、全国で何万何十万という件数に上っている。近ごろは人妻の蒸発も多くなったからね。まあ、あんたのほうも自力で探してみなさい。それに、夫婦喧嘩のはてだから、そのうち奥さんが戻ってくるかもしれないしね」  警察では、夫婦喧嘩には介入しないことを原則としている。妻の家出もその延長とみていた。とくに、水商売に働いている女だったら、男関係が多いのは普通だった。係官は、女房に捨てられた哀れな男が帰って行くその背中に眼をむけなかった。  警察の熱意のなさは、富子の勤め先の小料理屋に警察官が一度として富子の家出について参考的な事情を訊きに行ってないことでも分った。もし熱意があれば、富子の家出はその店で知合った男と恋愛に陥ちて、そのもとに奔《はし》ったと推測されるので、店の経営者なり、女中たちなりから話を聞いてしかるべきだった。警察は犯罪事件に追われて、市井《しせい》の浮気沙汰による人妻の出奔《しゆつぽん》などを顧《かえりみ》る余裕はなかったのであろう。  近所の主婦たちは辰太に同情した。が、この同情の裏にはもちろん覗き見趣味的な好奇心が横溢《おういつ》していた。他人の不幸がつづくのを願うような──。  主婦のなかにすすめるものがあって、辰太は富子の写真(六年前の)を写真屋で引伸ばさせ、それをプラカードに貼りつけて、夜の池袋や新宿の目抜きの場所を歩いた。プラカードには≪家出した私の妻を知りませんか。捜しているのです≫という文句を書いた。だが、こういうことは最近そう珍しい行動ではない。通行人は、プラカードの文句と彼とをちらりと見くらべて通りすぎるだけだった。辰太は、五日間でそれをやめた。  もはや、だれも富子が殺害されたなどと疑う者はいなかった。辰太はあまりにも親切すぎる気詰りな女が去って、解放と自由感とを味わった。自分もまだ三十五歳である。男ざかりの独身だから、今度は、もっと年の若い、気に入った女を択ぼうと思った。  ──しかし、事件はまったく辰太とは別なところで発生して捜査が行なわれていた。半年前に起った殺人事件の犯人の嫌疑を受けた男が、自分のその日その時刻のアリバイを主張した。だれか証人はいないかと警察は訊いた。その男は青梅の奥を女と歩いたのだが、その女は彼と特別な関係にあるので、証言の価値を警察では認めなかった。利害関係のまったくない第三者の証言を警察では被疑者に要求した。  青梅の山中で会った夫婦連れがいると被疑者はやっと思い出して警察に述べた。住所も名前も分らない。ただ、女のほうが池袋の小料理屋でお座敷女中をしていると話していたと被疑者は申し立てた。  捜査本部は所轄署に連絡して、該当者を探し出すのに協力を求めた。  そういえば、と防犯係は五カ月前に受付けた人妻の家出人捜索願の届を思い出した。たしか、その人妻は管内の小料理屋につとめていたと届出人の夫はいっていた。もしかすると、その夫婦ではないか。防犯係は机の抽出しの奥からその捜査願書を取り出した。ここで初めて警察では、証言の参考人として本気に富子の出奔先を捜索する意欲を起したのだった。  辰太のもとに所轄署員が捜査本部員を連れてきて、富子の家出の事情を真剣に聴取しはじめた。証言者は一人でも多いほうがよい。夫婦揃った証言を聞きたいのだ。 「ババヤン。守ッテオクレ。ドウカ、オレヲ守ッテオクレ。ババヤン、タノム。……」  訊問調書の中に、辰太の独言《ひとりごと》としてそう叫んだ箇所がある。意味はだれにも分らなかった。 [#改ページ]  うしろがき [#地付き]松本清張   ほんとうはここに集めた五つの短篇のヒントや着想などを書くといいのだが、推理小説だから結末がそれによって予想できては興味半減する(読者はこの「うしろがき」を本編読了後に読むとはかぎらない)ので、ここでは随筆ふうに自作の周辺を書く。 「火神被殺[#「火神被殺」はゴシック体]」──本文にもあるとおり「古事記」の神代巻に見えるイザナミ神が火の神カグツチ神を生んだためにホト(陰部)に火傷を負って死に、その復讐として夫のイザナギがわが子カグツチの首を斬って殺す話である。岩波文庫版のこの一節に「火神被殺」の小題を与えたのは倉野憲司氏(文博・「古事記」研究の学者)で、拙作の題名もこれに拠る。  古代の考えでは女性の生殖器が傷つけられると、女性としての生命を喪失したことを意味したものらしい。アマテラスまたはアメノワカヒメ(天上界の若い娘という意)がスサノオの乱暴に衝撃をうけ、機《はた》織り小屋で梭《ひ》でホトを刺《つ》いて死亡したのも、ヤマトトトビモモソヒメが夜ごとに通ってくる愛人の正体が三輪山の蛇と知ってショックをうけ、箸でホトを突いて死んだ(箸陵《はしはか》の由来伝説)のも、みなそれである。生殖機能が失われることは、生産や増殖(農耕生産の意味にもかかる)の喪失を意味し、それを婦女の死亡に象徴したものらしい。なお、イザナギが妻イザナミを死なせたわが子カグツチに復讐したのは、古代の近親相姦、この場合は母子相姦の風習を推測させるものがある。それはアマテラスとスサノオが姉弟でありながら同時に夫婦神の一面を持っているのと共通する。天の安河原で姉弟が宇気比《うけひ》(誓約)に剣と玉とを交換するのは夫婦行為を意味する。  古事記には、死んだイザナミを「出雲国と伯伎《ははき》国との堺の比婆山《ひばやま》に葬りき」とある。島根と鳥取の県境だが、比婆山は広島県比婆郡にその山の名がある。この地域は中国山脈の中心部で、島根・鳥取・広島三県にまたがって比婆道後帝釈《ひばどうごたいしやく》国定公園がある。古事記の出雲と伯伎(伯耆)の堺に安芸が加わっているわけだが、広島県側では県内の比婆山をイザナミの被葬地だと言っている。いずれにしてもその伝説地は三県が接するこの地方ということになる。  その地域の南側に落合という町(比婆郡)がある。芸備線(広島−備中|神代《こうじろ》)と木次《きすき》線(終点は島根県|宍道《しんじ》町)の分岐点で、駅名は備後落合、山に囲まれた小邑である。わたしは昭和二十三年一月九日の昼ごろ広島で芸備線に乗りかえた。備後庄原、高《たか》、平子、備後|西城《さいじよう》、比婆山という駅名の立札がホームの雪に埋れていた(これは今の駅名で当時とはすこし違っているかもしれない)が、東北にすすむにつれて夕暮れの中に山の雪が両側の窓に逼ってきて心細い思いだった。父の生れ故郷・鳥取県西伯郡矢戸村をはじめて訪ねるときのひとり旅であった。  備後落合駅についたのが夜だったが、暗い中にも頭上を圧する真白な山々がとりまいていた。駅前には一軒しか旅館がない。予約など思いも寄らないころで、リュックサックからとり出した白米一合(それが二食ぶんだった。外食券などは役に立たなかった)を旅館のおかみさんに手渡すと、はじめて家の中に入れてくれる。十畳ばかりの座敷のまん中に囲炉裏《いろり》が切ってあり、松の薪が勢よく燃えていた。同宿者は十二、三人ばかり。さし出した白米に見合った夕食一人分をおかみさんがわたしの前に運んできた。副食物《おかず》はどういうものだったか忘れたが、空腹にはたいそうおいしかった。まわりの者が、どこから来《き》んさったか、と訊《き》くので九州からと答えると、意外そうに、そりゃえろう遠いとこから来んさったのう、なんの商売かいの、と訊いた。わたしは古い鳥打帽に、復員のときにもらった兵隊服を着ていた。まわりの人々は農民のほかはヤミ商人であった。  八時ごろにおかみさんが蒲団を次々と運んできて、囲炉裏を中心に放射形に敷いた。この一部屋だけの合宿《あいじゆく》だった。客は、みんな蒲団の中に入ると足先を囲炉裏にむけて寝る。おかみさんは火を消し囲炉裏を置火《おきび》だけにしたが、コタツに入ったように下半身がほかほかした。うす暗い電灯はつけ放しのままだった。あれで山中の冬の宿を断わられたらどうなったろうかと今も想う。  翌朝八時ごろに起きて十二、三人がめいめいに自分の蒲団を片づける。それでもおかみさんは高脚つきの朱塗りの膳を各人の前に出した。田舎の宿だからそういう古いものはあった。朝食は何だったか憶えていない。九時ごろに客は宿を出て駅から木次線に乗る者、芸備線を乗り継ぐ者、雪の道を別れて歩いて行く者さまざまであった。わたしは芸備線の列車に乗って備中神代へ向かった。そこで伯備線に乗換えるためだった。  わたしにとって印象的な旅であった。この作品に備後落合や木次の名を出したのはそういう因縁からである。湯村温泉(大原郡)に行ったのは、四十三、四年ごろ「古風土記」を書くときの取材だった。イザナギ、イザナミの墓と称する古い石二つが付近の藪の中にあった。 「奇妙な被告[#「奇妙な被告」はゴシック体]」──わたしの小説の中で裁判ものの一つである。  この中に出てくる「無罪判決の事例研究」というのは戦前司法省が英国の判決例を翻訳した三冊もので、ピーター・カマートン事件はその事例の一つである。こういう外国の裁判例を出すことも、小説にリアリティを与える要素になるかと思う。戦前の司法省の役人は勉強したもので、司法省調査課が大正十四、五年に出した「司法資料」だけを見ても主なものに「宣誓セサル証人ノ処罪及ヒ不定期刑制度ニ関スル会議議事録」「諸国ノ刑法草案」「英国司法警察論」「英国ノ少年犯罪者ニ対スル刑法上ノ処遇」「漠堡《ハンブルグ》ニ於ケル常設仲裁裁判所」「独逸国陪審裁判所記録──付、秋山検事鈴木判事視察報告書」「英国の巡回裁判記録」「インドの原始刑罰法」などの抄訳《しようやく》がある。先進国の司法制度や裁判の実態を知ろうとする当時の若手司法官僚の意気込みがみえるようだ。 「葡萄唐草文様の刺繍[#「葡萄唐草文様の刺繍」はゴシック体]」──原作および単行本(一九七三年八月)では「葡萄|草《ヽ》文様」となったのをこれに改める。葡萄の実と葉と蔓《つる》とを図案化した文様で、西アジアから西域を通り中国を経て飛鳥《あすか》・白鳳時代の日本に入った。奈良・薬師寺の薬師三尊像(金銅仏)の台座に浮彫された同文様が代表例である。  一九六八年一〇月中旬にわたしはブリュッセルに行った。小説「アムステルダム運河殺人事件」(一九六九年四月「週刊朝日」カラー別冊1)を書く取材のためで、同行は森本哲郎(「週刊朝日」副編集長。当時)・船山克(朝日新聞出版局写真部次長。当時)の両君であった。十二指腸潰瘍に穿孔性腹膜炎を発して手術を受け、退院後一カ月にしての外国旅行(オランダ・ベルギー・イギリス・スイス・トルコなどを回る)だから、今から思うとすこし無茶だった。本来なら退院後の一、二カ月はどこか静かな温泉で予後を養うところだが「逆療法」のつもりもあった。  ブリュッセルでの宿はホテル・ヒルトンで、ここは市内東側のアップタウンになっている。西側のダウンタウンには有名な金箔塗りのグラン・パレスなどがあって中世のたたずまいを持っている。ホテルのある表通りは現代風の建物がならんでいる。古い教会堂がアメリカ式ビルの間に圧しつぶされそうになっていたりする。なのに、ホテルのすぐ裏側は十七世紀の緑青《ろくしよう》がふいたドームの屋根を乗せる最高裁判所の大建築があったりして、坂道の石だたみとともに上町にもまだバロック風な中世が残っていた。ホテルのロビーのショーウィンドウに入っている手造りのレースをわたしは見かけ、その売店のありかを訊き、三十分くらい外を歩いてその店を訪ねた。新築ビルの工事をしている大通りを右に曲ると、ひっそりとした古い住宅のならぶ横町になる。ちょうどホテルの裏側にあたるが、|しもたや《ヽヽヽヽ》ばかりで商店らしいものは見当らない。小さな看板を見つけてようやく入口の重いドアを押したが、表に陳列窓一つなかった。中に入るとすぐ売場で、テーブルクロース、ナフキンなどのレースがさまざまな縁どり文様と色彩でならんでいた。原色のけばけばしたものは一つもなく、いずれも色を上品に沈ませている。栗色の髪に白いものがまじった五十すぎの上品な婦人が売子として一人だけいて、買物の観光客五、六人にもの静かに応対していた。老舗《しにせ》だから家のおもてを商店むきにわざわざつくらなくとも客は訪ねてくるのである。客もささやくような声で話し、靴音を忍ばせて店内を見て歩く。わたし自身が古い銅版画の群像の一人になったような気がした。 「神の里事件[#「神の里事件」はゴシック体]」──この舞台は、「播磨国風土記」の世界である。わたしは前に「古風土記」(一九七七年一二月、平凡社刊。同社の「太陽」に連載したもの)を書き、それより前に小説「Dの複合」(一九六五年一〇月より雑誌「宝石」連載。文藝春秋社刊「松本清張全集」第三巻所収)を書くとき東経一三五度、北緯三五度の両線が交わる兵庫県西脇市に取材に行き、この地方を旅している。  古代史を背景に推理小説にしたものでは、この集の「火神被殺」と「神の里事件」のほかにも「巨人の磯」(一九七〇年一〇月「小説新潮」)、「火の路」(一九七三年六月〜七四年一〇月「朝日新聞」に「火の回路」として連載)などがある。古代史の興味もとり入れ、推理小説の本格味も生かしたいという意図からだが、この接合がうまくいっているかどうか。この小説の「豊道教」というのは、戦前茨城県下にあった新興宗教団体のイメージを籍《か》りた。 「恩誼の紐[#「恩誼の紐」はゴシック体]」──わたしの幼年時代の想い出がこのフィクションに入っている。「半生の記」(一九六六年一〇月、河出書房刊。「文藝」連載)、「骨壺のある風景」(一九八〇年二月「新潮」)などにその背景となる一部を自伝的に書いている。 〈底 本〉文春文庫 昭和五十五年十月二十五日刊